AIイラストに関する反省を含む私的な見解
ここ数ヶ月でAIイラストを取り巻く状況が大きく変化し、自分自身も新たな考え方をするようになってきました。
AIイラストが出始めた頃にAI画像生成の台頭と絵描きが今するべきことという記事を書きました。これはまだ未知の多かったAIイラストに対して心配しすぎないように呼びかける記事で、商業イラストレーターには大きな影響を与えないだろうという見解を示していました。
2つ目に書いた記事はAIイラストに対抗するための具体的なアプローチというものです。個人や絵描きたちがどのような行動を取れるのかを示し、対話がなされることの重要性について書きました。
そして、この文章はAIイラストに関する3つ目の記事となります。
終わらない論争
絵描きがAI学習されることに拒否感を感じていることに対して、エンジニアでもある私はこのように考えていました。
『エンジニアは技術を共有することに慣れているからAI学習されることにも寛容だ』
エンジニアには自分の書いたプログラムのコードを誰でも利用できるようにするオープンソースという文化があります。何日もかけて苦労して作ったものを何の見返りもなく共有するのですから、知らない人からするとびっくりする行動に思えるかもしれません。
しかし、すべてのエンジニアがこの意見に同意しているわけではありません。このような反論があります。
『そんなことはない。AI学習について最初に訴訟を起こしたのはエンジニアだ』
ここでいう訴訟はCopilotというコードを書くのを支援するためのAIが登場したときの出来事を指しています。
これについて絵描きはどのような意見を示すでしょうか。
『それらは比較対象として適切ではない』
例えばリリースしたばかりのアプリがAIに解析されて酷似アプリが出回ったら、エンジニアでも気分が害されるでしょう。私はこれらのことを思い巡らしたのち考えを改めました。
感情を傷つけられて攻撃的になる
私はAI技術に肯定的であり、そのことを公言していました。結果的に使わなくなりましたが、技術自体は面白いものだと今でも思っています。でも、論争が激しくなっていくにつれて怖くなり、次第にはっきりと意見を言えなくなっていきました。
AIイラストを肯定する人々と反対する人々の意見は、今も派閥争いのように激しく衝突しています。一方が優勢になると劣勢の方を見下す意見が飛んでゆき、形勢が逆転すると傷つけられた分さらに感情的に相手を攻撃してしまいます。
ちょうど現在はクリエイター支援サイトやイラスト投稿SNSで立て続けにAIイラストが規制されたばかりなので、AIを肯定する人々に対する冷ややかな意見が目立ち、それに対して一部の人は激しく反論しています。
この状況を見かねた人々は指摘しました。
『法律ではこのようになっている。どちらが正しいかは明白だ』
しかし、これは感情的な応酬であるため、法律さえも論争を鎮火させる決定打にはなりません。あまりに長引くため、多くの人はこのような争いにうんざりしてこのように考えるようになりました。
『AIで面白おかしい作品を作って、みんなで楽しんでいた時期が懐かしい』
始めのうちは確かに歓迎する空気感がありました。それなのに、なぜこのような状況になってしまったのでしょうか。私は改めて冷静になって、物事を整理し始めました。
一部のマナーの悪い人
生成系AI自体は楽しく使える技術です。絵描きのほとんどはAI学習されることに拒否感を感じるようですが、ここまで収集がつかなくなっていることには別の理由があるように感じます。
絵描きたちがAI学習に危機感を覚えるきっかけとなったのはmimicの登場と、それに対する意見が反響を呼んだからだと記憶しています。しかし、その後でも、AIを楽しもうという空気感はありました。
ですから、決定打は他にあるはずです。
この点で言及を避けられないのが、モラルの欠如した仕方でAIを使う人々のことです。しかし、すべての元凶と決めつけるのは早計なので、慎重に考えを進めます。
まず、モラルの欠如した行動というのは、次のようなものが挙げられます。
- AIイラストをイラストSNSへ連投すること
- 禁止されているジャンルのAIイラストを投稿すること
- AIイラストで見境なく収益化すること
- 特定の絵描きの学習データを公然と使用すること
これらを執拗に行ったのでAIイラストが嫌われてしまった、というのは筋が通った推論に思えます。
しかし、冷静に考えると本当に責められるべきは迷惑行為をした本人、正確にはその行動であるはずです。当然ながら迷惑行為をしたのはAIイラストを使う人のうちのごく一部です。そしてAIイラストそのものはツールに過ぎません。
もちろん、皆わかっていたことでしょう。その人をコミュニティから追い出すだけではあまり効果がなく、再発を抑止できないことをです。さすがに見せしめにするようなことはできませんし、そうなるとコミュニティ運営としてはAIイラストに制限を加えることくらいしか打つ手がなくなります。
創作コミュニティには、楽しく創作できるよう運営者が絵描きや築き上げてきたものであります。それはルールであったり、繋がりだったりします。それを踏み荒らされてしまうなら、居場所を守るための行動を取らざるを得ません。
ここまで考えて私は気をつけなければいけないと感じました。
AIイラストと、AIイラストを悪用する人を一緒にしないようにすることです。そしてAIイラストそのものの是非を問うことと、AIイラスト論争を一緒くたにしてはいけないということです。
自他問わず人々に悪者のレッテルを貼るなどしないよう、偏った見方をしないように注意をしたいです。
AIイラストを使う人々
AIイラストを使う人々について、もう少し考察を進めます。
前述の通り、一部のモラルが欠如している人がいるのは事実です。しかし、絵描きがみなマナーが良いというわけではありません。それでも一例として連投行為はあまり目立たないように感じます。
一つの仮説はイラストを手作業で描くということ自体が難しく、迷惑行為を行なうことは自然に抑制されていたという説です。その点、AIイラストは最高のクオリティを求めなければ、次々と生成できてしまいます。
反論として、手書きでもクオリティを問わなければ連投できるという点があります。例えば棒人間をかなり適当にであれば大量に書くことができます。そこまでしなくとも過去作品などを使って連投しようと思えばできてしまいます。
別の仮説は作品に対する愛着が関係しているという説です。手を動かして書くことより、より深い愛情を抱き、行動にも影響するというわけです。
しかし、これは説得力に欠けます。AIイラストに愛着を抱かないわけではないはずだからです。また手書きだって、描いたものすべてに深い愛着を抱くわけでもありません。
(ここで、連投が目立たないように思えるというのは私の主観であり、思い込みが入っているかもしれないという疑念が頭をもたげました。しかし、考察を進めるために、かぶりを振って次に進みます)
研究者との類似
私は個人的な経験から、身体的な動きの伴う創作活動は本人の気質に影響を与えると感じています。例えば絵描き、作家、音楽家、ダンサーなど表現活動によって、それを行う人々にしか見られない独特の雰囲気が生まれる傾向があります。
個人差はありますが、絵描きは比較的大人しい人が多く、絵描き同士で集まることを好みます。音楽家はおしゃべり好きな人が多く、作家は作家同士で集まることをそれほど好まないように感じます。
AIイラストを使用する人はどうでしょうか。AIイラストを生成するにはプロンプトと呼ばれる言葉や記号を打ち込み、結果を確認し、さまざまなパターンを試し、微調整を重ねていきます。そういう意味では科学の実験する人に近いような気がします。薬品の量を少しずつ調整する化学者のようです。あるいは調味料をミリ単位で調整する料理研究家のようでもあります。
すでにAI絵師・AI術師という呼称がありますが、生成AI研究者などと呼んだ方がより正確な気がします。
興味深い点は、生成結果を評価するのにリトマス試験紙のような明確な指標があるわけではなく、感性で評価するというところにあります。つまり、生成時は研究者のように実験を重ねますが、調整するのにはアーティストとしての感性が必要になるということです。
このテーマは非常に面白いです。生成AIは新しい研究分野です。従来の常識は通用しません。
この分野で活躍するのはどんな人でしょうか。
実験を推し進める原動力は未知や好奇心であり、それはAI技術にも合致します。ですから、自分の表現にAIを活用しようとするよりも、どんどんAIならではの新しい表現を模索していく方がうまくAIを使えていくような気がします。
いずれ、化学者の研究結果が実社会に良い影響をもたらすように、生成AI研究は実験的アートの分野で役立つ技術を生み出していくかもしれません。
AIを自分の絵に活かそうとして失敗した経験
私は自分の表現にAIを活用するよりも、AIならではの新しい表現を模索していく方が良いと考えています。
このように考えるようになった理由の一つは、実際に自分の創作にAIを取り入れようとしてことごとくうまくいかなかった経験にあります。
私は自分の創作にAIイラストを全く使用していません。資料としても使っていません。AIイラストを使わないのには、幾つもの理由があります。
まず生成系AIで綺麗なイラストを作ることは、決して簡単ではないからです。
とても手間がかかるります。AIイラストを生成するための環境を導入の手間があり、そのための必要条件を備えたコンピュータを用意する必要があり、日に日に進歩する最新技術についていく必要もあります。
実際に生成してみれとすぐにわかります。自分の表現したいものをAIで生成することは、想像の数十倍難しいです。それなら自分の手で描いた方が、圧倒的に楽です。
また生成AIは完成系を見せてくるというのが、私の創作スタイルにマッチしませんでした。一般的にはっきりしたイメージを絵を描く人と、ぼんやりした状態からイメージを膨らませていく人がいます。私は後者です。少しずつ形になっていくのが好きなのです。ですが生成AIはいきなり完成系を見せてくるので、創作意欲が削られてしまいます。私と生成AIは相性が悪かったようです。
生成時の好奇心と恐怖心に創作の邪魔をされるというのも大きいです。生成AIは時に意図しないイラストを生成します。笑えるような失敗作であれば良いのですが、自分が苦手なものが生成されるてしまうことがあります。その何が出てくるかわからない不安感がマイナスに働いてしまいました。絵を描くことは精神的な状態が大きな影響を与えます。落ち着いて描けることのほうが私にとっては遥かに重要でした。 結論として生成AIを創作に活かすことは自分にはできませんでした。これは明らかな失敗です。
そして、そもそも生成AIを創作に活かすというアプローチ自体がそれほど賢いものではなかったと思い至りました。繰り返しになりますが、生成AIはAIならではの新しい表現を模索していく方が賢明であると今では思っています。
(尚、ここで論じているのはイラスト生成AIのことであり、お絵描きを補助するAIのことではありません。お絵描き補助AIは創作に役立つはずです)
Skebやpixivリクエストに与えた影響と反省
AIイラストが登場してから程なく、SkebやpixivリクエストにAIイラストの制作依頼を受け付ける方が現れるようになりました。そしてAIイラストのリクエストを依頼する人がいることを知り、AIイラストには需要があることを知りました。
現在はAIイラストでの依頼は禁止になっていますが、今でもイラストのリクエストが来たときにネガティブな感情が頭をよぎることがあります。
『この方は本当に私に描いてほしいのだろうか。AIイラストでも構わないのであれば、私が描くことに意味はあるのだろうか』
実際のところリクエストする側は成果物が欲しいのです。リクエストなのですから当然といえば当然です。
冷静に分析するとすぐにわかることですが、私はいくつかの間違った考え方をしています。例えば自分に来たリクエストをAIイラストと結びつける発言ものは何もなく、勝手に被害妄想に似た考えを抱いてしまっていることや、無意識にリクエストしてくれた方に承認欲求を抱いてしまっていることです。
私は認めなければなりませんでした。AIイラストという都合のいい存在を盾にして、内なる感情を隠していることをです。それはイラストに対するコンプレックスだったり、自信のなさだったり、創作意欲が湧かないこと焦りだったりだと思います。
それらのネガティブな感情は、自分の中に元々あったものです。AIイラストが台頭してきて、ちょうどいい言い訳にできたので表面化してきただけなのでしょう。私は虚栄を張って生きている弱い人間です。
私は欲深くなり、勝手に疑い、ネガティブになっていました。私は間違っていました。
一番の問題はリクエストをしてくれた方のことを信じきれなかったことです。その人の本心は実のところ重要ではありません。用心深さを持ち合わせているならば、あとは人の善意を信じていた方がずっと幸せです。
もう少し単純かつ前向きになりたいものです。
まとめ
この記事ではAIイラストに関することを私的な見解を交えながら考察しました。
私たちを取り巻く状況は目まぐるしく変化しています。しかし、創作は私たちの内面から生じるものであり、周りに流されてしまうことも、自分をしっかり保つことも選ぶことができます。
AI技術についても自分なりの落とし所を見つけたなら、必要以上に振り回されないように用心しつつ、引き続き創作活動を楽しんでいきましょう。