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絵描きと炎上三つ巴

絵描きは基本的に自由な人々です。自由は一つの正義であり、正しいものです。しかし、自由が唯一の正義という訳ではありません。他の正義との対立で、自由を蝕む争いに巻き込まれてしまうこともあります。今日はそのことについて記事にしたいと思います。

三つの正義:平等・自由・宗教

正義の教室という本は『人間が持つ3種類の「正義の判断基準」、それは「平等、自由、宗教」の3つだ』と述べています。

逆に不平等、不自由、反宗教は悪と言えます。差別は悪いことですし、自由を束縛するのは悪です。道徳や伝統を壊すのも悪いことです。

これらの正義は両立しうるものであり、手を取り合うことが理想です。しかし、残念ながら、互いが互いの悪を攻撃するとき、三つの正義は御しがたい争いに発展してしまうことがあります。

それぞれの正義の定義

平等とは、差別がなく、みな等しく扱われることです。平等という正義のもとでは男女差別や人種差別は許しがたい悪であり、正されるべきことです。偏見や先入観に基づいて人々を扱うのは許しがたい行為です。

自由とは、束縛されることなく、自分の意思で行動できることです。支配されたり強制されたりして自由をなくしてしまうことは悪と言えます。自由という正義にとって圧政や奴隷制度は許しがたい行為です。

宗教とは、広い意味がありますが、ここでは道徳的であることや、伝統を大切にすることを意味します。モラルに反することは悪であり、また自身の信条に反することも悪です。人道に反することは許しがたい行為です。

正義による争いの歴史

それぞれの正義を勝ち取るため、人々は古くから争っています。宗教戦争は双方が正しいとする宗教のため、解放戦争は自分たちの民族の自由を回復するために戦いました。平等を求めるための革命が行われてきました。

そのような争いは世界中で生じました。ヨーロッパから中東、アジア、アメリカに到るまであらゆる国々で争いの歴史が残っています。人々は正義を掲げ、差別をなくすため、圧政から解放されるため、信条を守るために戦いました。

その結果、それぞれに傷跡を残しながら、ある程度の自由や平等や宗教が勝ち取られていきました。それでも世界中では今でも差別や圧政、特定の信条への攻撃が報道されており、戦いは続いています。

ネットで生じる論争

実際の戦争の他にも、正義による論争は頻繁に生じています。特にネット上では生じやすい環境にあります。匿名であるために発言がしやすく、正義の異なる人との接触も発生しやすく、拡散させる機能によって論争が広がりやすいからです。

世界的に有名な争いの一つにゲーマーゲート論争があります。議論の内容は多くありますが、ゲーム内容の女性への扱いについてや、ネットによる叩きはいじめである、といった議論がなされてきました。

ゲームは自由であるべきですが、平等や道徳が脅かされているのであれば、正義と正義がいともたやすく衝突してしまいます。そして、このような争いは日本でも頻繁に生じています。

日本で生じる論争

いくつもの争いがありますが、とりわけ絵描きに関係する論争が、日本のアニメや漫画が差別や暴力を助長しているとする論争でしょう。その内容や有様はゲーマーゲート論争と共通するところが多くあります。

アニメや漫画は創作であり、自由であるべきですが、差別を助長するのであれば平等という正義が黙っておらず、暴力を助長するのであれば道徳という正義が立ち上がるでしょう。どれが正しいかに関わらず、論争はすぐに生じます。

そして日本人が最も大切にする道徳が『和』です。日本では和を乱すことは悪です。そのため論争が和を乱す喧嘩になってしまえば、それはただ見るのも不快な悪ということになります。

炎上の構図

正義による論争は、それぞれが正義として譲れないものを抱えているため、発言は苛烈に、そして終わりの見えない言い争いに発展していくことがあります。このような状況を炎上と表現することがあります。

炎上は騒ぎに乗じて、揚げ足取りや誹謗中傷によって荒らされることもありますが、その多くは発信者の言動への批判から始まります。その発端となる言動は、三つの正義を侵していることが少なくありません。

自由を侵害するならば自由を正義とする人々から、差別をするなら平等を正義とする人々から、道徳を侵すなら道徳を正義とする人々から批判されます。もし三つの正義を同時に侵すようなことがあれば、往々にして大炎上してしまうことでしょう。

絵描きは基本的に自由を求める

一緒くたにはできませんが、絵描きは基本的に自由を求める立場にいます。絵描きは表現をするものであり、表現には自由な発想と自由に発信できる環境が必要だからです。

自由の人々は攻撃の対象になりやすいものです。今は自由という正義が強い時代です。自由に生きようという考え方は人気があり、ネットも言論の自由に重きを置いています。人気があれば発信力も高く、批判されやすくなっていると考えられます。

とはいえ絵描きが強いとは限りません。メンタル面などの弱さを持っていることは少なくありません。そこに正義による論争に巻き込まれてしまうと、大変な痛手を被ってしまうかもしれません。

正義が違うので根本的に分かり合えない

ネットや現実でのいさかいを見るとき、どうして争っているのかわからなかった経験があるのではないでしょうか。そんなに問題にするようなことだろうか、と思ったことでしょう。正しいのはどっちで、結論は分かり切っていると考えたかもしれません。

しかし、正義と正義のぶつかり合いは、どちらも正義であるため、分かり合うことができません。考え方の根本が異なるのです。それはまるで自分には存在しない思考回路のようです。

究極の解決策は、三つの正義が手を取り合いバランスを保つことです。しかしそれは善良な独裁者でもいない限り実現できないでしょう。

絵描きにとっての最悪のシナリオは

誰かが炎上しても、自分と感じるかもしれません。しかし、本当に警戒すべきなのは炎上ではありません。アーティストは生き方すら芸術にできる稀有な人々です。本人さえ折れなければ、また立ち上がることができます。

最悪のシナリオは文化が消えることです。その始まりとなるのが裁判です。どちらかが訴訟を起こすことが発端となって始まり、勝っても負けても傷を負う結果となります。負けてある種の表現や活動を禁止されたら、それで生計を立てている絵描きはどうなってしまうのでしょうか。

法廷による決定は想像以上の影響を及ぼします。判例は続く裁判にとって重要なものとなります。負けた側が改めて勝つのはますます難しくなっていきます。そうなってしまったら、孤独に活動を続けるか、別の分野に移るか選択しなければならなくなります。

正義による争いには近づかない

絵描きに限らず、平穏に過ごしたい人々は正義による争いには近づかないようにしましょう。どんな発言をしても、大抵は焼け石に水であり、ただ辛い思いをするだけだからです。

それと同時に、論争が裁判に発展した場合には、覚悟をしましょう。和解の道があるのなら、和解しましょう。その方が傷が浅く済むからです。勝っても負けても痛手を負い、負ければ活動を制限されてしまうかもしれません。

絵描きには絵描きを守る団体がありません。法廷で闘うことに慣れていません。これを危機と捉えるか、自由の産物と捉えるは、各々の自由です。

まとめ

この記事では、正義には平等・自由・宗教の三つの正義があることを書きました。また、それぞれの正義が対立することがあること、そのような争いには近づかないようにとのことを書きました。

この混沌とした時代に、私たちはいったい何を描くのでしょうか。