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うたかたのゆめ

一触瞭然。

もう者のお姉さんがそう言っていた。

私は子供のころ、その言葉の意味を知らなかった。

でも目が見えなくなって、そして耳も聞こえなくなって納得した。

私は隣室に入院している女の子の、お兄さんに一目惚れしてしまったのだ。

初めて会った日のことを今でもよく覚えている。

妹のお見舞いに来ていたお兄さんと、たまたま廊下ですれ違ったときのことだ。

私は看護師さんに軽く肩をたたかれ、

『お隣さんのお兄さん、挨拶する、大丈夫?』

と触手話で尋ねられた。

私は両手を伸ばして相手の手を探す。

これが会話の意思を伝えることになるからだ。

そしてお兄さんが私の指に触れた瞬間、不思議な感情に襲われた。

(男の人、だよね・・・? 手がすべすべで女の子みたい。でも骨張っているから、やっぱり)

私の会話は、相手の手話を触れることで読み取るというものだ。

ときどき私の両手が迷子にならないように、戻してもらう必要がある。

人によってだいぶこの戻し方が違う。

だいぶ強引に戻されることもある。

だけど、お兄さんはふわっと包み込むように私の手を動かした。

優しそうな人だと思い、そこまで考えていることに急に恥ずかしくなった。

こういうことを考えることは普段しないからだ。

それを見たお兄さんが、私が会話についていけていないと判断したのだろう。

私に近づいて、私の指に触れて動かし、手話の形を作る。

触れるだけでは読み取りにくい時には、こうやって手を取って手話をさせる。

(石鹸と、塩素の匂いがする)

お兄さんが近づいた時に病院のものとは違う石鹸の匂いが鼻腔をくすぐった。

兄が水泳の賞を取ったことを嬉しそうに話す、妹の姿を思い出した。

会話はすぐに終わったが、手の感覚が一日中残っていて、ずっとドキドキしていた。

私には夢がある。

ささやかな願いだ。

叶えるのは難しいかもしれない。

それでも、お兄さんとの出会ったことで、気持ちが新たにされたのだ。

たぶん、これは恋だ。

お兄さんはお見舞いに来る時はいつも、私にも挨拶してくれる。

会うたびに好きという想いが強くなる。

帰る時にはそれ以上に寂しくなった。

ずっと一緒にいてほしいと思ってしまった。

よく毛布にくるまって、会いたいと思いながら息を潜めて泣いた。

ふいに肩の震える。

私はベッドの周りを手探りで探した。

車椅子は撤去されてしまった。

以前使い方を間違えて、大怪我をしそうになったからだ。

当然、松葉杖もない。

私は足が不自由なのだ。

筋肉が弱っていく病気で、今のところ治療法はない。

目が見えなくなったのも、耳が聞こえなくなったのもこれが原因だ。

結局、私はそれらを探すのを諦め、ナースコールを呼ぶことにした。

私の様子に気づいた看護師さんが、手際良く私をトイレに連れていく。

そう。

私の夢は『一人でトイレを済ませられるようになる』ことだ。

浮ついた気持ちが一瞬で霧のように消える。

こんなんじゃ絶対に振り向いてもらえない。

私は唇を噛んで、また込み上げてくる涙をぐっと堪えた。

私は花が好きだ。

規則正しい花びらを触っているだけで、心が癒される。

少しにぎにぎして、葉っぱや花の弾力を感じる。

部屋に広がる香りで、気分が高揚する。

だからお兄さんが花を持ってきてくれたときは、本当に嬉しかった。

これがお見舞いでなければ、もっと嬉しかったのにとも思った。

自然と好きな花の話題になる。

私はコスモスが一番好きだと話した。

花の形は他とあまり変わらないけれど、茎が丈夫で力強いから。

そういう強さに憧れているのかもしれない。

お兄さんは花以外のものを持ってくることがあった。

どうやら妹さんのために持ってきたものらしく、古くなったものを交換して持ち帰っているようだ。

そのなかには、少し古くなった櫛や妹さんがあまり気に入らなかった恐竜のぬいぐるみなどがあった。

私はそれも触らせてもらった。

ある日、私は思い切って、お兄さんにお願いした。

顔に触れたい、と。

これは目の見えない人が相手の顔を確認するために必要なことだ。

だから、変なことをお願いしたわけではない。

でも、ドキドキしてしまってなかなか言い出せなかった。

お兄さんは私の手を取って、顔に触れさせてくれた。

ひんやりした頬。

妹さんとよく似たサラサラの髪。

整った顔立ち。

うっかり感じてしまった、お兄さんの吐息。

見ることはできないけれど、思い浮かべることはできる。

このとき、私はあまりの羞恥で顔から湯気がでそうだった。

それと同時に、理性が振り切れて、お兄さんの胸に飛び込んでしまいそうで、自制するのに必死だった。

二人の関係が進展したわけでもないのに、かつてなく胸が高鳴っていた。

それは、突然告げられた。

『ごめん、今日は早く帰らないと』

私の両手を戻して、お兄さんがそう言った。

何があるのかは言わなかったけれど。

私は、忘れたふりをしていたことを思い出してしまった。

お兄さんと私とでは住む世界が違う。

きっとお兄さんの周りには、私のような小娘より、ずっと素敵な人たちがたくさんいるのだ。

わかっているのだ。

この恋が実らないことくらい。

それに、たとえ恋が実ったとしても、私はお兄さんを支えてあげることができないのだ。

役に立たない両足を、寝て起きるだけの体を、自分では整えられない髪を思い出してしまう。

私はお兄さんの前だというのに、わっと泣き出してしまった。

お兄さんには私が駄々をこねているように見えただろう。

自分の情けなくて、女の子として見てもらえないことが悔しくて、迷惑をかけている自覚があって。

それでも、涙は止まってくれなかった。

体が思うように動かせなくなってきた。

あらゆることが不自由で、お兄さんのことを考える時間が心の拠り所となっていた。

それなのに、想えば想うほど胸が締め付けられる。

夢だった、一人でトイレを済ませられることも、たぶん叶うことはない。

それができたら、私は告白するつもりでいた。

たとえほんの少しでも、可能性をあげたてから告白したかったのだ。

体がこんなにボロボロになってもまだ、失敗が怖かった。

失うものなんてなにもないはずなのに、お兄さんを失うことがなによりも怖かった。

自分の力で手に入れたものなんて何一つないのに、自分の手からこぼれ落ちるものを惜しんでしまう。

私はなんて馬鹿なんだろう。

入院してから3度目の手術を受けるようにとは、もう誰も説得はしてこなかった。

私がそれを受けないことにしても、誰も責めなかった。

両親は抱きしめあって、すすり泣いていた。

私の身体は保ちそうにないことが、誰の目にも明らかだった。

一目瞭然。

もうがんばらなくていいんだ。

そう思った瞬間、肩の荷がぜんぶなくなった気がした。

そして、こんな人生にも幸せな日々があったことを、少しずつ思い出した。

私は、後悔すらできなくなってしまう前に、両親にありがとうを伝えた。

きっと家族は今までで一番辛いだろうけど、私は今までで一番すっきりしていた。

お兄さんと会えるのは、今日で最期だろう。

何を伝えるのかは、もう決めていた。

『好きです、付き合ってください』と。

お兄さんの答えもわかっていた。

妹想いの優しいお兄さんは、私の気持ちに応えることができない。

私は弱った手で、想いを伝えた。

これで何も悔いはない。

不思議と安らかな気持ちだ。

お兄さんの優しい手に包まれる。

『僕も好きです』

何かの間違いかと思った。

せっかく落ち着いていた鼓動が速くなる。

私が戸惑っていると、お兄さんは私の手を動かして、もう一度同じ言葉を告げた。

勇気を出してくれてありがとう、とも言ってくれた。

そして、

『退院したら、どこに行く? 何がしたい?』

と尋ねられた。

私はすっかり混乱してしまった。

私がもう退院も叶わないことは一目瞭然だ。

お兄さんは何を言って・・・

ふいに私の手に水が滴る。

なんだろうと手を伸ばす。

ぴと。

私はお兄さんの頬に触れた。

お兄さんの頬は涙で濡れていた。

一触瞭然。

顔の筋肉がこわばっており、辛い気持ちを必死に堪えているのがわかった。

手がかすかに震えていて、それでも私の手を握る力はいつもよりも強かった。

お兄さんの気持ちに嘘がないことが、わかってしまった。

そして、質問の意味もそのままの意味だということを理解する。

お兄さんは私の最期を知って、私がそれを自覚していることも知っていて、それでも退院した後の話をしようとしているのだ。

なぜだか、私まで涙が溢れてきた。

それと同時に、これまで思いつきもしなかったことが次々と頭に浮かんできた。

『お花屋さんに行ってみたい。いろんな花を見てみたい。お洋服屋にも行ってみたい。おしゃれをしてみたい。遊園地にも行きたい。いっしょにデートをしたい。それから・・・』

やりたいことが止めどなく流れる。

お兄さんは一つ一つに『いいね。一緒に行こう』と言ってくれた。

それから、やさしく抱きしめてくれた。

たった一つしかなかった夢が、両手じゃ数えられないくらいたくさんになった。

私は子供のころを思い出していた。

明日が今日よりも幸せになることを信じて疑わなかったあのころ。

たしか、こんな気持ちだったはずだ。

明日が待ち遠しくて、早く朝が来て欲しくて。

私はゆっくりと眠りに落ちた。

たくさんの夢を抱いて。