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虚塔

虚塔に関する最古の文献は紀元前6世紀まで遡る。哲学者のアッシローニリヒヌンスが著書『文明の黎明』の中でこう言及している。

『文明と顕示欲は不可分の関係にあった。ゆえに人類の欲望が虚塔として姿を現したのだ』

これは虚塔に関する最初の哲学的思想でもあり、のちの学者たちに影響を与えている。

3世紀になると虚塔は蜃気楼の一種だとみなされるようになった。当時の賢人たちが集うメダストロス会議において可決された公文書には『虚塔は存在せず、人々が見る幻にすぎない』と記されている。

この決議は当時の各国に波及し、次第に尾鰭がついて『愚か者にしか虚塔は見えない』という伝承に発展した。虚塔の話をする人は愚者の烙印を押されることになったので、この時代以降の虚塔に関する言及は極端に少ない。

虚塔に再び言及されるようになったのは、10世紀以降のことである。12世紀の科学者ベルナルド・ノーヴェントが虚塔の大々的な観測に乗り出し、1226年のベルナルドの4点観測として知られる実態投影写法を使ったアプローチにより、物体として存在する可能性が示唆された。手記によれば、晩年のベルナルドは『虚塔は幻ではない』と結論付けている。

さらなる進展を見せたのが1487年に探検家のロスマン・セインジャーが虚塔の周回に成功したことである。正確には虚塔が一番近く見える街であるアルデバを外周の一点として、虚塔を中心に円を描くように一周するというものだった。実際には正円を描くようにしても元の場所に戻れないことがあり、3度目の旅でようやく成功した。そのときの直径がおよそ104キロメートルである。

17世紀に入ると航空機による観測がなされるようになった。1655年、実業家のエリック・アンダーソンが巨額の資金を投じて当時としては最新鋭の航空機を製造させ、いくつもの虚塔に関する大々的な調査を行った。

そのなかでも有名なのが虚塔航空交差実験である。ロスマンの計測データを元に10機に及ぶ航空機を配置し、同時に虚塔に向けて飛ばすということをした。その結果は、どの機体も虚塔に辿り着くことはなく、他の機体とすれ違い、外周にたどり着いてしまうというものだった。乗組員は『すれ違った正確な時間や視認していた虚塔についての報告がそれぞれ異なっていた』と公表している。とはいえ、すべての機体が外周に辿り着いたことから、ロスマンの求めた虚塔の地図上の位置に間違いはないと、エリックは喧伝した。

これに猛反対したのが探検家たちである。この時に至る前に数多くの探検家たちが陸路での虚塔の探索に乗り込んでいるが、『明らかに100キロ以上探索したが虚塔には辿り着けなかった』と大勢の探検家たちがこぞって述べている。当時の探検家たちは学がない者とみなされており、その意見は過小評価されていた。しかし、探検家であり考古学者でもあるジェームズ・キングストンらが名乗りを上げ、科学者を交えた大規模な調査が行われることとなった。

1789年、ジェームズは総勢40人からなるクルーを引き連れて虚塔の調査に乗り出した。その中には虚塔探索からの帰還者も含まれていた。彼の手記には当時のことがこう記されている。『歩けど歩けど虚塔に近づくことができない。虚塔には永遠にたどり着けないように感じる』。計測のために観測地点から1000キロのところで、ジェームズはクルーのおよそ半数に帰還を支持して自身は探索を続行した。手記はその時に渡されたものである。探索を続行したジェームズら一行はついに帰還することはなかった。

1875年に物理科学者のミローデ・アングレアが提唱した虚塔のドーナツ理論は人々に衝撃を与えた。その理論によれば虚塔が見える地点を中心に空間が歪んでおり、それはドーナツの穴のようになっているというものだった。これには賛否両論があったが、数学者であり同じく物理学者のイラント・ニディリースチンがロスマンやエリックの報告を精査し観測のずれをドーナツ理論に基づいて解析したところ、ドーナツ理論は数学的に見れば正しいと当時の学会で発表している。

1903年に数学者のイルーニェ・マロカノスがドーナツ理論を発展させ、ドーナツの穴を通じた空間構造はクラインの壺のように表裏のないものとなっており、その空間の果てに塔が存在すると論じた。いわゆるドーナツ超空間理論である。ただし、この論文にはいくつかの数学的な間違いが紛れ込んでいたために、証明されるには至っていない。この理論は現代に至るまで、未解決の難問の一つとされ、多くの学者の頭を悩ませている。

さて、現代の探検家であるノードもまた虚塔に魅了されたものの一人である。彼は幼い時から虚塔の探索に身を投じてきた。彼の関心事はもっぱら『虚塔は本当にあるのか、それともないのか』にあり、それを確かめることが生き甲斐だった。

中等部に入るころになっても、同級生たちが『虚塔探検』をしなくなり、一人で探検をすることになってもノードの探究心が消えることはなかった。

ただし彼の心にはいつも葛藤があった。友人が次々と探索から離れていくことに、世間が虚塔を見て見ぬふりをすることに少なからぬ苛立ちを感じていた。

ノードは虚塔の外周で岩を蹴り、吐き捨てるように叫んだ。

「虚塔はあるのか、ないのか、どっちなんだ! 目の前にはある、見える、なのに何で辿り着かない! それを誰も不思議に思わない!」

ノードは1ヶ月に及ぶ探索のことを思い出す。ありったけの食料をリュックに詰めて旅立った。今度こそ虚塔の存在を暴いてやると意気込んでいた。

虚塔の外周は朽ちた廃墟のようになっており、非常に歩きづらい。瓦礫の山を一日中登ったり降りたりを繰り返して、ようやく探検家たちが『不可侵のフェンス』と呼ぶ、誰が作ったのかわからない謎の鉄柵にたどり着く。

フェンスは非常に高く、そして深い。計測機で測ったところ、高さは45メートルあり、深さは60メートルあった。大型の工作機が穴を開けるまで、探検家たちはこのフェンスを登って乗り越えていた。命綱なしでは登ることはまず不可能な難所であり、興味本位で探索に来た人の多くはここで引き返すことになる。

そこを抜けると、また瓦礫の山の道が続く。ただしこちらは風化が進んでおり、荒地に近い。さらに進むと遺跡がある。多くの探検家や考古学者たちはこの遺跡に気取られて先に進むことをやめてしまった。ここまできても相変わらず虚塔は地平の彼方にある。

遺跡地帯を抜けると湿地に入る。ここは非常に蒸し暑く、視界も悪く、何よりここでしか発症しない病気もあるため、大勢の探検家を苦しめた。ノードもここで高熱を出したこともあり、湿地帯の攻略を過去に何度も断念していたが、1ヶ月前はここをなんとか切り抜けることができた。ここでした見られない生態系もあるため物好きな生物学者が訪れることもある。

湿地帯を進んでいくと熱帯雨林のような、多様な植物の生い茂るジャングルに変化していく。ここもまた危険な地帯である。ノードは果物に擬態した鳥獣に噛まれたり、猛毒を持った生物から逃げたり、幻覚を見せる花に近づきすぎて中毒になりかけたり、散々な目にあった。それでも食物は豊富にあるので、この地点で食べ物を確保することが次の難所を乗り越える助けになる。

ジャングルをくぐり抜け視界に入るのが、断崖絶壁、そして底が見えないほどの谷が延々と続く荒れ果てた峡谷地帯である。一歩踏み間違えたら命がないこの場所で、灼熱の炎天下に晒され、食料が尽きないうちに次なる地帯に到達しなければならない。実際に多くの探検家がここで命を落とした。

ノードも峡谷地帯で九死に一生を得た。猛獣に囲まれて三日三晩飲まず食わずで逃げ回り、決死の覚悟で崖を下り、たまたまそこにあった湧水と自生していた果肉植物のおかげで、なんとか生き延びることができたのだ。しかしこれで、ノードは引き返さざるを得なくなった。

「くそっ」

思わず汚い言葉が出る。前回の探検を断念せざるを得なくなった経緯を思い出したから、というのもあるが、探検を困難にさせるもう一つのことを思い出したからだ。

それは人である。顔見知りと会うたびに『もう探検はやめろ』『時間の無駄だ』と説得してくる。探検しているときでさえ、何かに絶望したような探検家が口々に『後悔することになるぞ』『引き返した方が身のためだ』などという。

「どいつもこいつも、知ったような口をしやがって! 俺は本気なんだ! 興味本位でやってるようなやつとは違う!」

ノードは肩を怒らせながら、虚塔へと向かう。大がかりな探索の決行日ではないが、何もない日でも虚塔の方へ向かうのが日課になっているのだ。ただ、その日は怒りに任せて食料も持たずに不可侵のフェンスにまできてしまった。

日はすっかり沈んでいる。このまま帰るのは危ない。ノードはフェンスに寄りかかり、夜が明けるのを待つことにした。

そうして時間が過ぎ、深夜の三時ごろ。何者かが虚塔のほうからゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。ノードは咄嗟に身構える。しかしそれが、高齢の杖をついた爺さんであることを視認して、警戒を緩めた。

爺さんはフェンスのところまでたどり着くと、興味深そうにフェンスの穴を眺めた。

「いつの間にこんなものができていたとはのう。昔に来た時はなかった」

ノードに向けた言葉ではなかった。しかしノードは気になって声をかけた。

「おい、爺さん。あんた何者だ」

爺さんはようやくノードの方を向いた。その目を見た時、ノードは思わず怯んでしまった。その目が、他の探検家のように絶望した者ではなく、ギラギラとした野心に満ちた者だったからである。爺さんはノードをしげしげと見つめ、それから口を開いた。

「お前さんと同じだよ。探検家さ」

ノードは根拠なく見下されたと感じて虚勢を張った。

「はん! 爺さんの歳でか? 冗談じゃない!」

それでも爺さんはただノードを観察するように見ていた。それから何度か頷き、何度か首を振り、自分の中で何かの結論を下しているようだった。その態度がノードの癪に障った。

「おい、じじい! 何を一人で納得してやがる! お前まで虚塔は存在しないなんてほざくんじゃねぇだろうな!」

「ふむ、お主の名前は何という?」

ノードは会話のすれ違いにさらに苛立ったが、爺さんがあまりにもじっと見てくるので、内心では狼狽えていた。後退しそうになる足をグッと堪えて答える。

「ノードだ。そっちこそ名乗れよ」

「ジェームズ・キングストン。しがない探検家だ」

ノードはその聞き覚えのある名前の出どころを思い出そうとした。そうだ昔に図書館で読んだ虚塔の歴史書で見たことがある。虚塔の大規模な探索に挑んだ40人のうちの一人。探検家で考古学者の男だったはずだ。とはいえ、あくまでも歴史上の人物。存命のはずがない。ノードは鼻で笑おうとしたが、それよりも早く爺さんが言葉を発していた。

「こんな老ぼれのことなどどうでもいい。ノードよ、お主は本気で虚塔にたどり着くつもりか?」

「当たり前だ!」

「それに命を懸けられるのか?」

「なら、なんで今頃ここにいるのだ」

「ぐっ」

ノードは押し黙った。痛いところを突かれたからだ。この爺さんは本当に命を懸けるというのなら、虚塔への旅路に身を投じているはずだと暗に言っている。反論しようにも、ノードはどうしても虚塔のことで自己弁護をする気にならなかった。

「命が惜しいのだな?」

「・・・そうだ。命がなけりゃ、たどり着けねぇ」

「そうか、クク、カッカッカ!」

爺さんは笑い出した。突然のことでノードは困惑する。

「その通りだ、ノード。命がなければ、虚塔にたどり着くことはあり得ない。そうだ、わしは見てきた。蛮勇に踊らされて何人も死んでいった。何人も何人も何人も何人も」

その目は狂気で満ちていた。その口は歪んだように笑っている。

「愚か者は死ぬが、賢人も同じく死ぬ! 勇敢な仲間たちが次々と倒れ、想いだけを託していなくなった! ついにわし一人だけになったのだ! この意思をなんとしてでも繋がなければならん!」

爺さんはほとんど叫ぶように話し、ノードはそのあまりの激情に動くことができないでいた。爺さんはノードにさらに近づき、その手のひらに一つの器具を握らせた。

「虚塔は存在するぞ、ノードよ! わしはそれを見てきた!  この目で見たのだ! だがそこに踏み込む前に老いてしまった! 血涙を流して引き返したさ! ああ! 何十年もかけてな!」

爺さんは泣いていた。止めどなく流れる涙を拭うこともせず。ただ射抜くようにノードを一心に見ている。

「ノードよ! これは虚塔への道筋を指し示してくれるコンパスだ! これを手に入れるのに10人が命を落とした! さあ、これを手に取り、虚塔を目指すのだ! そして、そこに足を踏み入れるのだ! 人類の! 悲願のために・・・!」

そこまでいうと、爺さんは急に座り込んでしまった。ノードは慌ててその肩を揺する。

「お、おい、じじい! 返事しろ! おい! 勝手に託して、勝手に死んでんじゃねぇ! おい! 起きろ、じじい!」

ノードはすっかり日が登るまで爺さんに呼びかけたが、ついに起きることはなかった。

「はい、間違いありません。確かに、こちらの遺品はジェームズ・キングストン自身のものです」

ノードはその後、遺品を引き取ってさまざまな役所に掛け合い、爺さんの身元を調べてもらっていた。その結果にノードはあり得ないと首を振る。しかし、調べた結果、爺さんは探検家のジェームズだということで確定、ということになった。

爺さんが異例な長生きをした真相もさることながら、ノードにとってのもっぱらの関心はやはり虚塔にあった。

「それで、ノードさん。本当にいいんですね? ノードさんの所有している物件、資産、権利書」

「ああ、全部売り払ってくれ」

ノードは全財産を虚塔のために費やすことにした。全てを懸けて虚塔に向かうことにしたのだ。

ノードが手続きを終えて役所から出ようと、所員の一人が走ってきて手を差し伸べてきた。ノードはなんとなくその手を取る。所員は言った。

「どうか、ご武運を」

「ああ」

外に出る。

人生を賭けた旅立ちの日、ノードは抜けるような青空を見上げた。そして、それはいやでも目に入る。

そこには虚塔が『さあ、辿り着りついてみせろ』と言わんばかりにそびえ立っていた。

「やってやるさ! なぁ、相棒?」

そう言ってノードが掲げたコンパスは、迷うことなく虚塔を指し示した。