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1 小説版みがらいあ

WARNING

この小説は改稿を予定しています。現時点での記述は大幅に変更される可能性があるのでご注意ください。

1.1 第一章 時空の迷い子

凡人は悲しみの涙を流し、

天才は涙が流れる悲しみを語る。

涙の流れない悲しみを覚える、

私はおそらく愚者なのだ。

1.1.1 白井研究室

その部屋は消毒液の匂いで満ちていた。丸ゴシックで書かれた表札が控えめな主張をしている。白井研究所。薬品棚のガラスに映る私は虚無の目をしていた。パサリと音を立てて白衣に袖を通す。私はゆっくりと室内を歩き回った。

「今日こそユートピアという名の地獄を消し去ってあげましょう」

抑揚のない平坦な独り言。虚空に向かって発した声に間髪入れず力強い返事が来る。

「おう! 全部ぶっ壊そうぜ!」

振り返ると一人の少女が拳を突き上げながら勢いよく立ち上がっていた。金色のポニーテールが揺れている。その声からは幼さを想起させた。しかし、能天気そうな表情の裏には獰猛な野獣を潜ませている。

私たちはどこか似ていた。生気のない目も服装に頓着しないところも、都市を破壊しようとしていたことも。

彼女との出会いは鮮烈なものだった。私が研究の一環でスラム街に潜入したときのことである。裕福そうに見えたのだろう。彼女は私を見かけるや否や問答無用で襲いかかってきた。初対面で殴り飛ばされたことは忘れられない。お互い意地になって、ボロ雑巾のようになるまで取っ組み合いをした。彼女の絶対に屈しようとしない姿勢に感心したことを覚えている。そんな精神を見込んで助手として研究所に招き入れ、共に邁進する関係となった。

この都市には深い闇がある。意図的に作られた差別と格差が人々を束縛していた。人々は偽りの幸せを信じ込まされている。それに誰も気づかないのは、都市を支配しているのが完全なはずの人工知能だったからだ。絶対的な権力を持っても人間のように腐敗しないのである。私たちは平等な支配を受けるはずだった。奴がいなければ。

奴は近いうちに動くだろう。私たちは速やかに行動しなければならない。都市を破壊してでも、人々を強制的に退去させる必要がある。そのために虎視淡々と準備をしてきたのだ。

私はガラスで隔てられた制御室に目を移す。クリーンルームになっており、回転灯が正常な稼働を伝えていた。中央には作戦の要となる精密機械が鎮座している。これまで共に闘ってきてくれた大事な道具たちだ。

作戦は時限式で開始する。もはや誰にも止めることはできない。私はこの都市で生きてきた年月を思い、やがて消え去る存在に別れの言葉を告げた。

「あなたは第三の親であり、そして敵でした」

心は不思議と穏やかだった。

1.1.2 正義の執行者

その直後、運命に抗うかのような声が耳に届く。若い女性の叫び声だ。

「都市を壊して自分も死ぬ気なの!?」

重厚な扉が叩き割れる強烈な音がして、殺風景なこの部屋に金属片が飛び散る音が鳴り響く。私は破損した扉に視線を落とした。足元に倒れている扉は中央が大きく凹んでいる。これには興味をそそられた。

多くの扉は鍵を閉める時にデッドボルトと呼ばれる四角形の部品が飛び出る。蝶番がある側よりは衝撃に弱いため、強引に侵入したいならそちらを狙うべきだろう。しかし研究所の扉は機密性を高めるためにグレモンハンドルを採用しており、そのシンプルで頑丈な錠を上下につけている。強度は左右で同等程度だ。そう考えると衝撃を与えた箇所は的確だったと感心せざるを得ない。

扉の向こうには凛々しい風貌の女性が立っていた。息を切らして、悲痛な面持ちで肩を大きく上下させている。走ってここまで駆けつけたことは明らかだった。

正義の執行者。彼女はその主要なメンバーだ。本来は都市外の自警団であるが異変に気づいて乗り込んできた。彼女らとは共闘した経験もある。しかし、最終的には敵対の道を歩むことになった。私は彼女の激情に対して冷ややかに返答する。

「ユートピアは負の遺産です。私が片付けなければなりません」 「馬鹿なことは言わないで! 全部あなたが背負うなんて間違ってる!」 「話になりませんね」

首を振って一蹴した。彼女は目に涙さえ浮かべて訴えてくるが、私の心には響かない。何度もぶつけ合った議論なのだ。話が平行線で終わることはわかり切っている。多少の同情はあるが、いまさら計画を変更しようとは思わなかった。

それでも退かないのが彼女の厄介なところだ。彼女は背後に目配せをして合図を送った。すると仲間たちが一斉に雪崩れ込んでくる。彼らの動きは訓練されたものであり、瞬く間に取り囲まれてしまった。

「手荒な真似はしたくない! あなたを守るためなら何だってする! お願い! 降伏して!」

彼女の説得は無視して冷静に状況を分析する。現実的に考えて、私の力では簡単に打ち負かされてしまうだろう。彼女たちは銃火器を所持していないとはいえ、各員の練度は非常に高かった。それでも私は余裕の態度を保ちつつ、軽蔑とも取れる言葉を用いて淡々と返答する。

「私たちがこの状況を想定していないとでも思っていましたか。愚かなことです。崩壊が始まりますよ。忠告しますが逃げるなら今の内です」

一つ目の爆発が生じ、室内が大きく揺れる。執行者たちに動揺が走る。彼女の顔にも焦りが見え始めた。彼女は悔しそうな表情をしながら、何度も訴えてくる。

「逃げろなんて言う優しさがあるなら! 私たちと一緒に来ればいいじゃない! どうしてわからないの!」 「私は罪と罰の冠を被っています」

都市を破壊しながら、のうのうと生きようとは思っていない。最も大切なものを賭けるぐらいの覚悟はできているのだ。二度目の爆発が起きる。折り合いのつかないまま時間だけが過ぎていった。

「私は絶対にあきらめないわ!」 「どうぞご勝手に」

膠着状態の二人に横槍が入る。

「取り込み中に悪いが……」

サングラスをかけた長身の男が躊躇いなく近寄ってきた。その足取りからは飄々とした印象を受ける。しかし、レンズの向こうにうっすらと見える瞳は揺らぐことのない決意で満ちていた。私は初めて警戒を強める。扉を蹴破ったのはおそらく彼だ。侮れない相手である。

「うちのお姫さまはわがままでな。問答無用でいかせてもらおう」

その言い放った瞬間、姿が搔き消えたと思うほど素早い動きで間合いを詰められる。咄嗟に白衣に忍ばせておいた試験管を女性に投げつけた。中身はただの色付きの水であるが、ハッタリ程度には使える。案の定、彼は女性を守るために動きが止まった。しかし、彼の切り替えは早かった。私との距離は5メートルといったところだろうか。彼の脚力ならば瞬く間に捕まってしまうだろう。私は後ずさるように数歩下がった。それが合図となる。男は即座に後ろに飛んだ。私との間に突如、爆発が生じたのだ。男は肩を竦める。

「やれやれ。そう簡単にはいかないか」 「当然だろぉ! このエセ外交官め!」

金髪の少女が吠えた。そして次々と爆発を生じさせる。右手に持つリモコンはフェイクだ。少女が一体どうやって操作しているのかは私にもわからない。本当に優秀な子だ。学問的な物覚えは悪いが、実戦においては天才そのものである。その才能に幾度も助けられてきた。私は正義の執行者たちにはっきりと言い放つ。

「私たちの意思は決して揺らぎません」

執行者たちが狼狽たのがわかった。研究所は私たちの砦だ。幾百にもおよぶ対策が用意されている。侵入を許したところで、易々と負けるつもりはないのだ。

しかし、意外なところから計画が崩れ始める。

1.1.3 特務情報部

「それは困るなぁ」

新たな乱入者が現れた。正義の執行者の一員ではない。えんじ色の独特の制服を身にまとった、私にとって最も厄介極まりない集団である。

「……特務情報部が出張ってきましたか」 「ご名答。主要な爆破コードはすべて解除させてもらったよ。君たちに勝利はない」

国家の諜報部隊に属しながらも、自由に活動をすることを許された精鋭中の精鋭。それが特務情報部だ。情報戦においては右に出るものはない。爆弾を解除された以上、白旗を上げざるを得なかった。

「ふぅ。お見事です」

私は両手を上げる。もちろんこれも合図である。金髪の少女がナイフを取り出し、刃先を私の首に当てた。うっすらと血が滲む。その手は全くためらいがなく、動いたら掻き切るぞと暗黙のうちに伝えていた。

「なっ!?」

執行者の女性は絶句した。情報部の面々も眉をひそめた。私が自分自身を人質にしたからだ。彼女たちが私を生きて捕らえようとしているのが明白である。私が死ねば少なくとも当面の目的が潰えるだろう。

この展開を予期していたのか、外交官と呼ばれた男だけは機会を伺っているようだ。ここは先手を打たせてもらう。

「少しでも動いたら分かっていますね? 一瞬で取り押さえられかねないですから。両手を上げてもらいましょうか。銃火器を持たない主義が仇となりましたね」

執行者たちは渋い顔をした。やはり彼らは私たちに危害を加えるつもりはないようだ。迂闊に行動できないでいる。しかし余裕がないのは私も同じ。ここまで追い詰められるとは思っていなかった。

「これは最後の手段のつもりでしたが」 「……なにをする気だ」

外交官と呼ばれた男が問う。単刀直入に答える。

「この研究所を爆破させるのですよ。都市全体に仕掛けられたものとは別のものです。さすがの特務情報部も今更どうにもできないでしょう。早く逃げることです。手遅れになる前に」

再び部屋が大きく揺れる。三度目の爆発だった。そして私は自分自身を人質にしたまま、ゆっくりと後退していく。そして金髪の少女と共に非常口から外に出た。私たちが去ったのを確認した執行者たちは急いで扉に近づく。しかし、慎重に開いたその場所にはすでに誰もいなかった。

1.1.4 時空の迷い子

私たちは隠し通路を歩いていた。扉の仕掛けはそうそう見破れないだろう。非常灯のわずかな光に照らされた薄暗い通路。剥き出しの鉄板が二人の足音を反響させている。通路の高さは2メートルくらいだ。外部に漏れないように秘密裏に作った通路なので、人一人がぎりぎり通れるような広さである。仄暗さの奥には鉄の柱が並んでいた。その先は暗くてよく見えない。私は振り返り追手が来ないことに安堵を覚える。金髪の少女が私に問いかけてきた。

「次はどうするんだ?」

私は歩きながら打ち明けるように話しかける。

「少し長い話になりますがいいですか?」 「いいぞ」

何の気負いもなく少女は返事をした。私は慎重に言葉を選びつつ語りかけた。

「時空渡航について以前に話したことがありましたね、それは不可能だと。その理由を覚えていますか。人間は一定の領域までしか物事を生じさせられない現象についてです。私はそれを事象の強制力と呼んでいます。それが世界によるものなのか、超常によるものなのかはわかりません。時間を渡航することは領域外のことであり事象の強制力が働くため、どうやっても実現ができないのです。しかし、強制力は別の方向にも働くことを突き止めました。宇宙の法則から外れたものを正そうとする働きです。これは運命とは異なります。すべての事象を最初から決定することはないようなのです。そして、これらの力の狭間に生きる人物が一人だけいました。それがあなたです」

彼女は私の言うことを理解できないでいることだろう。しかし、この言葉は後になって必ず役に立つはずなのだ。

「あなたは生まれるべき時代とは違う世界に生まれたようです。タイムトラベルをしてきたのか、最初から法則から外れていたのか。何より事象の強制力をどうやって通り抜けたのか、私にもわかりません。理解しようがないのかもしれません。しかし、あなたは今もこうしてここにいます。そして、時間を渡航するという不可能なことがあなたを元の時代に送り届けるためにだけは開かれているようなのです。事実として私はそのための装置を完成させてしまいました」

彼女は例えるなら時空の迷い子だ。誰も通れないはずの時間の通り道を遡って帰ることができる。そして帰らざるを得ない理由があるのだ。

「私はそれを使うつもりはありませんでした。あなたが強制力から見逃されているのならば、あなたが望まない限り本来の時代に送り返す必要などはないと思っていたからです。正直に言えば、私はあなたと離れたくありません。しかし、超越的人工知能があなたの特異性について気づいてたようです。事態が動き出せば私たちが捕らえられるのは時間の問題でしょう。それはどうしても避けなければなりません。すべての背後にはあの極悪非道な人物がいるからです。きっと私を人質にとってあなたを使い過去を思い通りに改変しようと企てることでしょう」

心の中には荒れ狂う葛藤があった。少女はそれに気付いているのだろう。黙って私の言葉を聞いている。私は心情を吐露した。

「あなたに多くを背負わせてしまうことに私は大きな罪悪感を感じています。一緒に付いて行けたらよかったのに。本当は悔しくてたまりません。現実は残酷です。私はこの時代に残るしかありません」

いつまでも未練がましく話をしているわけにはいかない。目的地はもう目の前だ。

「長話をしてしまいましたね。要点を言いましょう。これからあなたを過去に送ります。わかりましたか?」 「おう!」

少女は躊躇いなく返事をした。

「あなたは素直でとてもいい子です。未来」

私は初めて少女の名前を呼ぶ。彼女を研究所に迎え入れる際に私が与えた名前だ。養父が私に付けてくれた名前に由来している。とはいえ今後はその名前を使わない方がいいかもしれない。時空を連想させる言葉を安易に使わせるのは危険だろう。

「過去に着いたら、らいあと名乗りなさい。過去の私はみがしと呼びなさい」 「らいあ、みが氏。うん、分かった!」

らいあという名前には素直な彼女が強く生きていけるように、みがしという名前には今の私と同じ失敗をしないようにとの願いを込めて付けた。ちなみに二人の名前を合わせて略すると未来となる。私からのささやかなメッセージだ。

1.1.5 今と未来

しばらく歩くと重厚な扉が見えてくる。取っ手や鍵穴がなく代わりに生体認証のための装置があった。指紋だけでなく声紋や虹彩、顔などの各項目がすべて認証されなければ開かないようになっている。私は所定の位置に立ちすべての認証を完了させた。すると扉が重そうな音を立ててゆっくりと開く。

部屋の中は金属のポールなものが至るところに設置されている。ポールの先端からは紫色の光が放たれていた。それらは俯瞰してみると幾何学的な模様を描いているようにも見える。私は再び少女に話しかけた。

「これからあなたを10年前の過去に送ります」 「過去に着いたらどうすればいい?」

少女の目に戸惑いはなかった。

「まずは過去の私を探しなさい。私のことは目を見ればわかるでしょう。今と同じように虚無の目をしていますから。そして、過去の私と協力して名無したちを探しなさい」 「名無し?」 「私やあなたと同じような境遇の子供たちのことです。簡単に言えば名前を奪われた身寄りのない子供たちです。その辺りは過去の私に聞けばわかるでしょう」

私は言葉を続ける。

「あなたが送られる場所は反社会勢力の一つであるシースネークの旧アジト付近です。そこを最初の拠点にして過去の私を探しなさい。私があなたに教えたあらゆる術をもってすれば可能でしょう。私がユートピアに入ってしまう前にどんな手を使ってでも拠点に連れていきなさい。過去の私は一人で何でもできると慢心しています。その腐った性根を叩き直してやってください」 「んー、分かった!」

少女はなんの躊躇いもなく頷く。私は彼女を中央の座席へ座るように促した。見た目は事務用の椅子とさほど変わらない。私は彼女がそこに腰掛けるのを見届けた。

私は装置のロックを解除する。間違って少女が起動してしまわないように何重にも鍵をかけたのは良い思い出だ。この少女を除けばだれも使えばしないのだからここまで厳重にしなくてよかったのかもしれない。

建物の揺れが大きくなった。爆破による揺れはハッタリにすぎない。しかし、連中がそれに気づくのも時間の問題だろう。急がなければならない。

「あなたに与える任務はユートピア計画を破綻させること。そして超越的人工知能による支配から人々を解放することです」 「ん!」 「未来……いいえ、らいあ。私も正義の執行者たちも特務情報部も反社会勢力も、最善の未来を模索しそれを掴みかけ、しかし、すべては手遅れになりました。ですが……」 「大丈夫だ! 任せろ!」

未練がましく言葉を続ける私に金髪の少女は力強く答えてくれた。私は心の底から思う。彼女ならきっと成し遂げてくれるだろうと。

私は意を決して起動スイッチを押そうとした。その瞬間、激しい痛みが頭に走る。。

「っ……!」

何者かに殴られたのかと疑ったが、振り返っても誰もいない。唐突な事態に戸惑っていると、心の中に強烈な既視感が湧き上がってきた。そして後悔という感情が嵐のように荒れ狂う。このような事態は想定していない。私は顔を上げて、不安そうにこちらを見上げる少女に向き直った。

こんなことをしている場合ではないのに。時間がないのに。私は湧き起こる感情を抑えることができなかった。後悔という二文字に背中を押されるようにして、少女を両手で力一杯抱きしめていた。腕の中の少女は突然の私の行動に戸惑っているようだった。

「あなたは、私の娘のような、妹のような、なにより最高の……最高の相棒でした。年が離れていても、生まれるべき時空が異なっていたとしても、私はあなたを、心から尊敬し、愛しています。私と、私と一緒にいてくれて、支えてくれて本当に、本当にありがとう」

少女の顔が霞んで見えた。その額が濡れていた。なぜなのだろうかと辿ると、それは私の頬を伝う涙だということに気づいた。私の声は震えていた。声は少しずつ途切れ途切れになり、ついには嗚咽に変わった。ただただ感謝と愛情の言葉を繰り返した。

どのくらい抱きしめていただろうか。腕越しに伝わってくる温もりを感じるにつれ、次第に既視感と後悔の気持ちが薄れてきた。その代わりにふんわりとした安堵感に包まれる。こんな気持ちになるのは初めてだった。私は落ち着いた口調で、別れの言葉の言葉を告げた。

「どうか元気で……さようなら」 「うん!」

起動スイッチを押す。装置が最大出力を上げて稼働し、ついには少女の存在が世界から消えた。過去に跳んだのだ。本当にあっという間であっけないものだった。私は静かに目を閉じて、それからゆっくりと上方を見上げた。もちろん見えるのは部屋の天井だけだ。

この都市は古代の人々が空に一番近い場所に建造したものの延長にあるものだ。雨や太陽といった自然の恵みが空から来ることから、空に近いほうが祝福が得られると考えたらしい。そんな逸話を思い出しつつ、なんとなく天井の向こうの空に思いを馳せた。

先ほどの既視感について考える。もしあの既視感がなければ、私は彼女を抱きしめることはなかっただろう。そして抱きしめていなければ、後になって強烈な後悔を感じることになったのかもしれない。

私は突拍子もない仮説を立ててみた。あれは10分後の未来の自分からのメッセージだったのではないだろうか、と。根拠はなにもない。ただ、私が少女に未来を託したように、未来の私が私に何かを託すということはないだろうか。過去の自分にちょっとした贈り物をするくらいはできるかもしれない。こんなことを考え始める自分の可笑しさを自覚してくすりと笑ってしまった。それから振り返って扉の向こう思い描いて、こう呟いた。

「あの人たちは無事に逃げられたでしょうか?」

正義の執行者のことも特務情報部のことも心の底から憎んでいたわけではない。もしかすると私たちが手を取り合うという未来も存在し得たのかもしれない。そう思うと、今からでも何かしてやろうという気持ちにもなってくる。簡単な挨拶くらいはできるだろう。

「先ほどのが未来からのメッセージだとしたら、これは差し詰め今からのメッセージですね」

面白くもなんともないジョークを口にする。ユートピアと呼ばれた都市のとある研究所で。因縁の相手に宛てて嫌味でも恨み言でもなく、ただ感謝の言葉を書き綴るのは想像以上に愉快なことだった。

1.2 第二章 二人の出会い

1.2.1 名無しの少女

私は自分の本名を知らない。物心つく前に何者かによって戸籍が抹消されたからだ。私は自分の出生に関する情報を何も持っていない。

そんな私を保護してくれたのは反社会勢力の一つであるアルカトラズのリーダーだった。彼は事実上、私の養父である。アルカトラズは絶海の孤島に拠点を構える一風変わった組織である。私はその一員として育った。ちなみにアメリカのカリフォルニア州にあるアルカトラズ島とは名前以外の関係はない。

六歳になったときに、大陸の初等中等教育学校に通えるように養父が手配してくれた。入学に必要な情報は組織の構成員が捏造したものである。実のところ連邦への入学は諜報活動を兼ねていたのだが、養父が裏切られて逮捕されたことにより計画は頓挫した。

学校はブレンダリア連邦の首都ネアトリスに設立されている。私は寮生活をすることになり六年間の教育を受けた。

教育学校で最優秀の成績を修めるとハニカムシティの市民に推薦される。ハニカムシティは首都の中心部に建造されている都市だ。一般的にはユートピアと呼ばれている。私は十二歳のときに推薦を受け、その後まもなく市民権を得た。市民権を得ることは名誉なことと見なされている。

そして今日、ユートピアに移住する日となった。季節は夏だが北地のため気温は高くない。10℃前後だろうか。長袖の制服を着ている私にはちょうどいい気温だった。

私を含めた十数名が送迎バスに乗り込む。何人かの生徒の親が来ており、見送られていた。ちなみに私にはない。バスの後部座席の端に座り窓の向こうをのんびり眺めていたらバスガイドによる案内が始まった。他に何もすることがないので耳を傾ける。

バスガイドの話は地域にまつわる教養だった。こういう生真面目なところが実に連邦らしい。

1.2.2 ブレンダリア連邦

ブレンダリア連邦は極東ロシアの一部が独立してできた国だ。モンゴルの北端と中国の東端、日本の北海道の一部を含んでいる。

独立の発端は東アジアで始まった独立運動にある。東アジアの一部が独立に踏み切ったのを皮切りに国家間の緊張が激化した。それに加えて史上稀に見る災害により民衆の不満が最高潮に達し、国が乱立する異常事態となった。

一連の騒動によって誕生した国には次のようなものがある。平和的な解決を望んで集まって誕生したベル。古代中国の思想回帰を求めるジーラン。急速な近代化を推し進めるトランポストなどだ。

それぞれが異なった領地を主張していて複雑な状況になっている。そのせいか反社会勢力の活動も激化していた。私が幼少の頃に所属していたアルカトラズもそのような勢力の一つである。

さて、バスガイドの話は目的地であるハニカムシティに移る。都市名の由来は土地がハニカム構造になっているからだ。都市は正六角形のタワーの屋上に建造されており、それが多数連結することによって人々が住めるようになっている。

都市の構造は少し複雑である。六角形のハニカムタワーは三つのタワーからなるトリプルタワーが六つ集まって構成されている。トリプルタワーは三つ足の椅子のような構造をしている。タワーはそれぞれの高さが200メートル、ハニカムタワーの六角形の直径が160メートル。現在ハニカムタワーは120棟あり、敷地の最大直径は4kmにもおよぶ。

敷地の高さは海抜1700m。それ以上の高さになると気流の影響が大きくなるようだ。タワーの構造物は基本的にトラス構造になっている。建材は形状記憶合金を含め、様々なものが用いられている。建築には有限要素法が用いられた。山地は強い風が吹くために、ハニカムタワーの中心には上昇気流を逃すための穴が開いている。

バスガイドは他にも様々な説明をした。彼女は心なしか退屈そうな表情をしている。本当はもっと観光地などを案内したいのだろう。

私はガイドの説明をぼんやりと聞きながら推測する。ここまで大規模な建造がなされたのは権力の誇示のためではないかと。目の前に理想郷を置くことで、人々に夢を見せようとしているのではないかと。そうやって人々の心を掌握しようとしているのではないかと。

1.2.3 二人の出会い

心地よい揺れにうつらうつらとしていて、異変に気づくのが遅れた。バスが一向に進まないので車内がざわついている。どうやら渋滞に巻き込まれたようだ。

車窓から辺りを見渡すと何やら騒然としている。往来する人々も戸惑っていた。窓を開けると怒号が飛び交っている。喧嘩でもあったのかと思ったが、時々聞こえてくる単語から爆発騒ぎがあったことがうかがえた。

最近テロが多いことはニュースで知っていた。それに巻き込まれたのだろうか。バスが動かないまま時間が過ぎる。

30分くらい経っただろうか、ハニカムシティの職員たちが息を切らしてやってきた。彼らの話によると、都市のゲート付近で騒ぎがあったらしい。騒ぎの詳細についてはは語らなかった。心配させないようにとの配慮だろう。渋滞はしばらく続きそうとのことなので、私たちは徒歩で行くことになった。

移動の途中に休憩として公園に立ち寄る。水を飲むため水道場に行くと小柄な女性の職員に声をかけられた。制帽を深くに被っており顔はよく見えないが金色の後ろ髪が光に反射している。

彼女は顔を寄せ囁くようにしてこう言った。

「付いてこい」

金色の長い髪が頬を撫でた。あどけない声。もしかすると私と同い年くらいの少女だろうか。しかし容姿に似合わない力で痛いほど手首を握られ、そのままグイグイとどこかに引っ張られて行く。

都市からどんどん離れていくことに違和感を感じた。何かがおかしい。

「方向が間違っていませんか?」 「安心しろ。こっちで合ってる」

間髪入れずに彼女が答えた。

私は隙を見て女性職員の腕を振り払う。それから彼女と面と向かって対峙した。

辺りは往来の少ない工業地区。重機の音が鳴り響いているが、建築用の防音シートに囲まれており人目につかない。

少女が制帽をかなぐり捨てて私を見据えた。その仕草を見て状況を察する。彼女は都市の職員に偽装していたのだ。その目的がなんなのかは分からないが、みすみす捕まるわけにはいかない。私は覚悟を決めた。

おそらく彼女は私より足が速い。走っては逃げきれないことが想定された。私は構えの姿勢を取る。初等中等教育学校で習った護身術だ。

金髪の少女は私を捕まえようとして迫る。咄嗟に間合いに入られる直前、重力に委ねるように体を落とした。右手の甲で彼女の腕を打ち払い軌道を変える。

彼女が怯んだ一瞬の隙を見て、背中に回り込み左手を掴もうとした。しかし、すんでのところでそれをやめる。彼女が私の右手を軸にするように側宙で身を躱したからだ。もし掴んでいたらひねり飛ばされるところだった。

急いで後退して間を取る。初見で見切られたのはかなり痛い。彼女を中心に円を描くように走って様子を見る。

身を低くして路傍に落ちていた単管パイプを拾う。目測でおよそ1.5メートル。私が棒術に使えるギリギリのサイズだ。威嚇になればそれでいい。また駆けてくるので逆手返しで牽制する。

彼女は上体を逸らして避ける。そこでかかとに石が引っ掛かり足をふらつかせた。私は速攻で突きを入れる。完全に入っただろう。

しかし、私の目に映ったのはパイプの先端にぶら下がっているリュックだった。まずい。まんまとフェイントに引っかかってしまった。動揺してしまい判断が遅れる。

彼女は潜るように体を低くして私に組みついてきた。腕を振り解こうと身をよじるが彼女の力は想像以上に強く、びくともしない。彼女は顔を近づけて小声で囁いた。

「警備兵に気づかれた」

私は横目で周りを伺った。遠くではあるが警備兵たちが不審がっているように見える。万が一にでも捕まるわけにはいかない。私は戸籍を偽装しているので取り調べでもされたら捕縛される恐れがある。

それでも彼女は私を離そうとはしない。私に選択を迫っているのだ。警備兵に連行されるか。それとも彼女と共に逃げるのか。どちらが厄介だろうか。

もちろん少女と警備兵の両方から逃げたいところだが、彼女は手をがっしり握って離さないので全く隙がない。都市の職員が私を探しに来てくれることを願ったがそれは叶わなかった。

私は彼女と共に逃げることにした。

1.2.4 逃走劇

警備兵たちは私たちを不審人物と判断したようであり、捕まえるために迫ってくる。私たちは工事用のバリケードを掻い潜り、足場を縫うようにして走る。作業していた男に見つかり何事かと怒鳴られたが、結果的に良い撹乱になったので良しとした。

隣り合った仮設ハウスの間に飛び込む。私たちのような子供でなければ入れないであろう隙間だ。屋外機の陰に身を潜めて警備兵たちが過ぎ去るのを待った。

それから工事現場を駆け抜ける。彼女は極めて自然に建材を覆う防水シートを奪っていた。泥棒でもしていたのだろうか。工事現場を抜けると大型トラックが停車していた。

「車の下に乗り込め」

彼女はそう言って車両の下部に潜り込んだ。私もそれに倣う。予備のタイヤが積まれている場所があり私たち二人が入れるくらいの隙間である。砂埃やオイルが付着しており服や手が汚れる。

「これを使え」

先ほどのシートを手渡してきたので頭部を守るように敷く。その直後、車が発進した。

パイプの隙間から地面が接触しそうなほど近くに見えるため死ぬほど怖い思いをする。ちらりと少女の方を見ると特に動揺している様子はなかった。これも作戦の内なのだろうか。防水シートで多少緩和されたものの、タイヤが塵や小石を巻き上げて肌に当たるため乗り心地は最悪だった。

車両は止まったり動いたりを繰り返しながら都会から離れていく。エンジンの回転のリズムを聞き取って平均速度を割り出した。頭の中で150kmは進んだだろうと考えたころ、ようやく車が停車した。

運転席のドアが開き男が車から降りる。私たちは彼の足音が聞こえなくなるまで待った。車体の下で揺らされたひどい疲れがあるが休んでる暇はない。隙を見て少女と一緒に逃げ出した。

視界に入る瓦礫の山を横目に駆けていく。ここは廃材場だろうか。木片や鉄屑が散在していて走りにくい。足場も不安定で下手すると落下する可能性もある。注意を払いつつ、できるだけ急いで進んだ。

彼女の後を追って轍が残る道に出る。轍は足跡が付きにくく追跡を困難にできるため好都合だ。道なりに森のほうへ走っていく。

森の道は急な勾配が続いた。草木で肌を傷つけないようにシートを外套代わりにして進む。一歩一歩が非常に重く感じた。体力がどんどん奪われる。途中からけもの道すらなくなった。落ち葉で滑りやすいので木の枝を掴んで手繰り寄せるようにして登る。

靴は泥で汚れ服は汗でびっしょりだ。幹に背をあずけて息を整えていると、少女が振り返ってこちらを見た。私と同じように息を乱しているがまだ余裕があるように見える。これでも私の運動成績は悪くなかったのだが彼女は次元が違うようだ。

1.2.5 湖の入り口

どれだけ進んだだろうか。急に視界が開け、水色の光が網膜を照らした。きらきらとした水面に朽ち果てた建造物が沈んでいる。

廃墟の湖だった。自然に帰りつつある人工物と絶え間ない水の流れ。まるで時間が止まっているかのようだ。

湖の周辺には廃棄所だった形跡が残っている。何十年か前までは廃棄所として使われていたようだ。今では木々が廃材の隙間から生茂るほどに放置されている。そこには言いようのない寂しさと無常感が漂っていた。

この場所を知識としては知っていた。頭の中に地図を思い浮かべる。おぼろげな記憶を手繰り寄せた。この湖はかつて海と繋がっていたはずである。しかし、廃材を埋立て続けた結果、湖として孤立してしまったのだ。

「12歩進め」

彼女から指示が出る。前方には湖の中心に向かって鉄骨が伸びていた。私はその上を歩かされる。全体的に錆びておりギシギシと嫌な音がした。指定された地点に到着する。

「左方向に飛び込め」

私は水面を見下ろした。水が透き通っており水生植物がゆらゆらと揺れるのが見える。ただ一点だけ底がかなり深いようだ。飛び込むのを躊躇っているとトンと背中を押される。私は水面に向かって落下した。水しぶきが舞い視界が青に染まる。気泡が地上に向かうのが見えた。

水を吸い込んだ衣服の重みに体が引っ張られ、どんどん沈んでいく。私は空気を求めて無我夢中に手足を動かすが、後から飛び込んできた彼女にさらに押し込まれて息ができない。

水中特有の浮遊感の中で焦燥と混乱が荒れ狂った。興奮は酸素を奪う。私は力を抜いて彼女に導かれるままにした。

すると重力による短い落下を経験した。何が起こったのだろう。

空気が満たされており普通に呼吸ができる。見渡す限り筒状の空間にいるようだ。頭上を見上げると天井が水面になっている。表面張力が進化してしまったかのようだ。この空間は一体何なのだろう。

この空間について興味を抱いていると彼女にさらに先に進むように促される。筒はエル字状になっており、その先にはまた水面があった。まるで水の扉だ。

「ここはなんなのですか……?」 「拠点の入り口だ。水の中にあるんだぞ」

説明が不足すぎる。湖の中に入り口があるとは何事だろうか。説明の続きを促すが首を振られる。急いでるのか単に面倒くさがりなだけか。彼女は私を急かした。

「早く中に入ってご飯にしようぜ。コーラ飲むだろ?」 「……炭酸は苦手です」

彼女との距離感を掴めずに言葉を濁した。私は彼女に手を引かれるまま水に潜る。そしてまた空気のある空間に落ちた。二度目の経験だったので多少は落ち着いている。

その空間は部屋として使える十分な広さがあった。別の部屋へと続く通路もある。私がきょろきょろと周りを観察しているとふいに視線を感じた。彼女は私をじっとみている。

「どうかしましたか?」

彼女は何も答えなかった。お互いずぶ濡れで髪や頬から水滴が落ちる。表情は読み取れない。笑っているような怒っているような不思議な表情だ。でも、なんとなく泣きそうな感情を抱いている気がした。彼女はぽつりと呟いた。

「ただいま」 「おかえりなさい?」

反射的に答えてしまう。あまりにも唐突な挨拶。私に対しての言葉だろうが、私ではない誰かに向けられたかのようでもある。私は彼女がなぜか寂しそうに見えて、胸が締め付けられた。

こうして二人の奇妙な共同生活が始まった。

1.3 第三章 湖の拠点

1.3.1 シースネーク跡地

ぶるりと肩を震わせる。水で濡れていた上着を脱いで近くの鉄骨に掛けて乾かした。水中の施設はそれほど寒くはないが、身体に付いた水滴が着実に体温を奪って行く。シャツも脱いで絞り、それをタオル代わりにして体を拭いた。低体温症になるのは絶対に避けたい。不自由な環境下での体温低下は命の危険が伴うからだ。

持っていた予備の服は全て濡れてしまったので、らいあが貸してくれたパーカーを羽織った。彼女も服が余っているわけではないらしく、長袖のTシャツ姿でいる。背中合わせに座って身体が温まるのを待つ。早急に体温を維持できるような何かを探した方が良さそうだ。

ぐるりと部屋を見回す。がらんとした部屋だ。全体的に白色で統一されており机や椅子はほとんどない。部屋の形は若干円形になっているようだ。部屋の壁には金属製の廃材らしきラックが並べられ、缶や道具が乱雑に置かれている。彼女を中心にして床が多少散らかっている。金髪の少女はリュックからいくつかの缶を取り出しながら私に話しかけてきた。

「ここはシースネークのアジトだった場所だ」

シースネークという組織の名前は知っている。海蛇という呼び名で知られている反社会勢力の一つだ。他の反社会勢力と比べると新しい勢力であり、その実態はあまり知られていない。そんな組織がまさか湖の中に拠点を持っていたとは驚きだ。しかし、今ここに住み着いている気配はない。どこに行ったのだろうか。私の疑問を知ってか知らずか彼女はこう続ける。

「今はもっと深くに進出したらしいぞ」

海のことを指しているのだろう。確かに水深が浅い湖では発見されるリスクが高いのかもしれない。あるいはすでに見つかってしまったのだろうか。それでもシースネークに関するニュースを耳にしないことを踏まえると今でも海の奥深くで活動を続けているのだろう。

それにしても彼女はなぜハニカムシティから150kmも離れているこの場所を知っていたのだろう。どうしてハニカムシティに赴いたのだろうか。わからないことが多すぎる。

1.3.2 みがとらいあ

らいあはしきりにアジトの案内をしたがった。ここ以外にも部屋がいくつか存在するらしい。しかしそれよりも知りたいことがいくつもあった。私は尋ねる。

「あなたは何者なのですか」

彼女がわざわざ私をここに連れてきた理由がわからない。こんな場所を拠点にしているあたり反社会勢力の一員なのだろうと目星をつけていたが、彼女の答えは私の想像とかけ離れていた。

「私の名前はみら……間違えた! らいあちゃんだぞ! 10年後の未来から来たんだ」

突拍子もない言葉が出てきた気がする。思わず聞き返してしまった。

「未来ですか?」 「未来じゃないぞ、らいあだ!」

よくわからないが自己紹介をしているようだ。話を合わせておこう。

「そうですか。私も自己紹介といきたいところですがあいにく身分は明かせないのです」 「それは知っている。だからお前をみが氏と呼ぶ!」 「みが氏? よく分かりませんが了解しました。では私もあなたのことをらいあ氏と呼ぶことにしましょう」 「それはいいな!」

私は戸籍を偽造しているので友達というものを作ったことはない。しかし、らいあとは初めて会ったとは思えないくらい親近感を覚えた。どこかで会ったことがあるのだろうか。少なくとも記憶にはない。

それよりも気になる点がある。らいあは自分が未来から来たと言った。未来人。そんなことがあり得るだろうか。私の考えではタイムトラベルは不可能だ。彼女がそう言ったのは恐らく身元を隠すためのでまかせなのだろう。あるいはジョークなのかもしれない。

さらに質問を続けた。これが最も気がかりな点だ。

「らいあ氏、あなたは私に危害を加えますか。味方ですか?」 「味方だぞ。当たり前だろー」

らいあは即座に答えた。ハッタリとは思えないがいまいち信用できない。表情が読み取れないからだ。笑っているのか怒っているのかよく分からない。とはいえ純粋すぎるその発言はスパイに向いているとも思えなかった。

疑心暗鬼になっていても何も進みはしない。仮にここから逃げ出したとしても行くあてもないのだ。

「お腹が空いてるだろ。これ食べていいぞ」 「……いただきます」

湖の水で手を洗ってから差し出された缶詰を受け取った。鉄製の細い棒でつつく。らいあはコーラを好んでいるようだが、私は非常用の保存水をもらった。水分さえ十分にあれば三週間は生きていける。

1.3.3 作戦の主導権

らいあがしきりに話しかけてくる。内容は取り留めのないものがほとんどだったが、いくつか興味深い話があった。未来の私が世界を危機から救うために彼女を現代へと送ったらしい。なんとも荒唐無稽な話だ。

本当に私と面識があったのであればそれを証明してみせてほしいところだ。とはいえ私に関するデータは幼少期のものはアルカトラズに知られているし、今に至るまではブレンダリア連邦に掌握されている。もし彼女が反社会勢力の一員であるならば私に関する情報を知っていてもおかしくなかった。よって、らいあがいくら証明したところで意味はない。

らいあはただ未来の私との生活について話した。一緒に料理を作って大失敗したときの話や研究の邪魔をして怒られたときの話などである。

馬鹿げた作り話だと思って聞いていたが、未来の私とやらの行動がやけに真実味があるのが気になった。確かに私ならそう行動するであろうと、自分自身の芯のようなところが反応してしまう。そして、らいあがそれを見てきたかのように話すのが印象的だった。妙な説得力がある。

未来の私はハニカムシティを破壊しようとするらしい。その話が話題に上ったとき、咄嗟に誰かに聞かれていないか警戒した。ブレンダリア連邦ではそういった発言をすると反逆罪で捕まる可能性がある。謀反の意思があると判断されたらたまったものではない。

らいあが私に危険な思想を植えつけようとしているのではないかと疑う。しかし直感は彼女の言っていることは正しいと主張していた。ただ彼女と一緒にいることに居心地の良さを感じてしまう自分が不思議だった。

私は養父が何度も言っていたことを思い出した。ブレンダリア連邦の知識や技術は積極的に取り入れつつも思想教育には気をつけろというものだ。もしかすると洗脳されているのは私の方なのかもしれない。

らいあを信じるかどうかについて決定打となったのは次の発言からであった。彼女は名無しを見つけたいとは言ったものの、それをどのように行うかはすべて私に任せるというのだ。意味がわからない。

「どういうことですか。あなたはどう行動するかを何も考えていないのですか」 「未来のみが氏がそうしろって言ったんだ。どうするかなんて知らない。知っているのはみが氏の方だろー?」

無茶苦茶な話だ。らいあの計画、曰く立案者は未来の私らしいが、その舵取りは私に任せると言うのだ。私は思わず尋ねた。

「私の好きにしていいというのですか? では私があなたに何もするなと言ったら何もしないのですか」 「何もしない。みが氏と一緒に居られればそれでいい」

私は頭を抱える。急に得体の知れない計画の責任者になれと言われたようなものだ。しかもらいあは私の指示に従うという。このような食べ物もろくにない環境においてだ。はっきり言って馬鹿げている。

とはいえ、少なくともらいあは私に何かを強制するつもりはないことは分かった。そうであれば身の安全が確保できるまで大人しくしているのがいいだろう。らいあが信頼できるかどうか確信できたら改めて行動方針を変えればいいのだ。彼女は私よりも体力があるだろうし今は勝手に行動してもらって問題ないだろう。

「では私はこのアジトで調べ物をして来ます。あなたは自由に行動してください」 「さすがみが氏! 早速作戦開始というわけだな!」 「そういうわけではないのですが」

らいあは意気揚々としている。ふと彼女が思い出したように言った。

「みが氏の棒術は懐かしかったなー。初めて会ったときも棒術だったぞ。スラム街によそ者が来ることは滅多になかったからな。金品を奪ってやろう思ったんだ。ボコボコにされたけどなー」

未来の私は少しばかり過激なようだ。

1.3.4 拠点の探索

体が温まってきたので拠点を調べてみることにする。

探索の目的は拠点の安全確認だ。水中にある拠点なので、ほんの少しの不備が命取りになりかねない。空気はきちんと保たれているか、水漏れがないかなどを確認する必要がある。

今いる部屋は家に例えるなら玄関のような場所だ。らいあの私物だけが散らばっている。拠点に備わっていたものはほとんどないようだ。彼女の所持している飲料水や食料はこの拠点に貯蔵してあったものらしい。他のいくつかはハニカムシティに向かった際に手に入れたものとのことだ。

「らいあ氏。浄水器や火を起こす道具は持っていますか」 「持ってないなー」

こんな調子でどうやって生活していくつもりだったのだろうか。しかし、案外こういう姿勢のほうが強かに生きていけるのかもしれない。私は頭の中の調査リストに飲料水の確保と火を起こす道具の入手を追加した。

改めて施設に目を向ける。部屋として機能する空間をモジュールとして連結して作られたようだ。海中トンネルのような接合部が見受けられる。一つの部屋の広さはおよそ5メートル四方だ。それが12部屋ある。全体的に白と黒を基調としたデザインで統一されていて近未来的な印象を受け、宇宙ステーションを連想させた。

書類やデータの類は一つも残っていなかった。当然この拠点の持ち主であるシースネークに関する情報はない。すべて持ち去ったのだろう。

とはいえ完全に手放したわけではないように感じられた。なぜなら拠点としての機能が残されていたからである。顕著なのは水の入り口や空気の循環システムだろう。

空気はどのように保たれているのだろうか。今のところ酸素が不足する様子もなく異臭などの不快感もない。施設をくまなく調べていると一番奥の部屋にマンホールのようなものがあるのを発見した。蓋を開けると梯子が下に伸びている。そこから降りることがができるようだ。

そこにあったのは今まで見たどんな装置とも異なっていた。例えるならサイフォンのようなものを何百個も組み合わせたような感じだ。それぞれにどんな役割があるか皆目見当もつかない。いくつかの管には水溶液が満たされており気泡が生じてポコポコと音を立てていた。それが窒素だったり酸素だったりするのだろうか。

人の生活できる空気を発生させるだけでも驚きだが、今もこうして稼働しているのが不思議でならない。エネルギー源はどうなっているのだろうか。なぜシースネークはこの装置を残したのだろう。もしかすると装置を壊してしまうのが惜しかったのかもしれない。

そして私は水漏れがないかをチェックしていたときにそれを見つけた。

「これはもしかして浄水器?」

そこを通って濁った水が透き通った雫として落ちる様はまさしく浄水器のそれであった。空調設備の一部として組み込まれている。今は取り外して検証することができなかった。そのため浄水器として正しく機能するかは定かではない。それでもこの拠点を後にする時が来たら、これを外して持っていこうと心に決めた。

1.3.5 ふたりの持ち物

私は探索を終えて最初の部屋に戻る。

らいあが持ち物を整理していたので私が近づくと彼女はそれらを見せてくれた。良い機会なのでお互いが持っているものをリストアップする。

らいあの所持品は拾ったものと奪ったものに分類される。拠点で拾ったのが作業着と作業靴、カッターナイフ、フォーク代わりに使っている細い鉄棒、用途の不明な金属物。

奪ったものはハニカムシティに向かう途中に出会った旅行者からリュックと一日分の普段着。ハニカムシティの職員からは制服一式。建築現場からは防水シートとロープ。

もともと拠点にあったものは保存水と保存食、石鹸と歯ブラシとカミソリ、そして救急セット。救急セットには鎮痛剤と抗菌薬、包帯、バンドエイド、脱脂綿、綿棒、ハサミ、ピンセット、ワセリン、エタノールが入っていた。

私は持ち物は教育学校の制服と鞄。鞄の中は財布、ハンカチとポケットティッシュ、手鏡とリップクリーム、ノートと鉛筆と消しゴム、折り傘と裁縫セット。そして地図。

これで全部だ。

二人で防水シートに包まっていれば体温を保てる。保存水はおよそ三日分だが浄水器が正常に機能すればなんとか水は確保できそうだ。保存食も同じく三日分なのでいずれ現地調達しなければいけなくなる。

火はどうやって確保しようか。脱脂綿は火口に使えそうだ。リップクリームでそれを補助できる。エタノールとロープでランプが作れるかもしれない。ロープは他にも重宝しそうだ。着火するものがないので、あとでライターなどが落ちていないか探してみよう。

折り傘は防水シートやロープと組み合わせれば簡易的なシェルターを作れるかもしれない。救急セットがあったのは僥倖だ。不慣れなものを食べて体調を崩したり、山道でつまずいて怪我をするかもしれない。

そこでふと素朴な疑問が湧き上がる。

「未来のものは持ってこられなかったのですか」 「持ってこれなかったんだ」

彼女が言うにはタイムトラベルをしたのち、気づくと裸の状態でこの施設にいたらしい。それから拠点からツナギの作業着を見つけて着用し、活動を開始したとのことだ。

もうひとつ、らいあが拾った用途の不明な金属物について質問する。

「これは何ですか」 「んー? こんなの拾ったっけ?」

らいあは首を傾げた。どこかで紛れ込んだのだろうか。

「触ってみてもいいですか」 「もちろん」

私は装置を手に取る。金属のひんやりとした感触がした。入出力の端子はない。モニターもない。大きさはライターくらいだ。文鎮か何かだろうか。調べてもわからなかった。

今日できることはやり終えたように感じる。疲労感でくたくただ。

防水シートが乾燥したようなので、二人でそれに包まって目を閉じる。床が固くて寝付けないだろうなと考えているうちに意識は夢の中に落ちていった。

1.4 第四章 塹壕ラジオ

1.4.1 方角

水の音で目を覚ました。なかなかできない体験である。光を水が反射して部屋の中に朝日を招き入れていた。らいあはすでに起きていた。そして寝起きの私を連れて行く。私たちは昨日と同じように水中の入口を通って外に出た。

空に昇る太陽が眩しい。気温は15°くらいだろうか。少し肌寒い。水に濡れていたため余計に体温を奪われる。拠点に出入りするたびにびしょ濡れになるのは億劫だ。風邪をひかないように気をつけなければいけない。

私は辺りを見回した。今日は落ち着いて見ることができる。湖の水は長い間放置されていたために透き通っており、鉄骨などの廃材が湖の底から水面の上へと突き出ていた。それらが幾つも重なって幻想的な空間を作り出している。

方角がわからないので調べることにした。

まず1メートルの振り子を作る。私が持っているノートはISO B5サイズだ。縦の長さが25センチメートルなので4つ並べると1メートルになる。重りには六角ボルトを使った。長さが1メートルになるようにロープをカッターナイフで切る。

次に1メートルの鉄棒を垂直に突き立てる。ロープを使ってそのぐらいの長さの鉄棒を探した。地面に立てたのち、その影の先端に印をつける。ナットが山のように落ちていたのでそれを使った。

らいあに振り子を振ってもらい、時間を測る。行って戻るまでほぼ2秒だ。これを定期的に振ってもらってできる限り正確に時間を数える。そして、15分経過した時点の影の先端に二つ目の印をつける。

こうしてできた二つの点を結んで線にし、最初の点に左足で二つ目の点を右足で踏む。北半球なので体が向いている方が真北になり、反対側が真南になる。これでほぼ正確な方角を得ることができた。

周りには廃墟と化した建物も残っていた。鉄筋が剥き出しになったコンクリートの建造物は廃材所の主要な施設だったのかもしれない。崩れかかった煙突が斜塔のように立っていた。重機のようなものも見つかる。半分以上が水に浸かっているために何の機械かはわからないがかなり古いものだろう。

水の流れが静寂を際立たせていた。廃墟の多くには植物が侵食しており苔に覆われているものもある。いったいどれだけの月日が流れていたのだろう。廃材を包み込むような大木が幾つもあった。悠久の時を感じる。

一つ疑問が生じる。なぜ連邦はこれほどの施設を放棄したのだろうか。連邦にとっては単なるごみ捨て場くらいの認識だったのだろうか。それとも秘匿されている何かがあるのだろうか。

情報が足りない。そのことを痛感する。どんな作戦を実行するにしても最初の段階としての情報を集める手段が少ない。私はらいあに尋ねた。

「現時点で外部の情報を得る方法はありますか」 「ないなぁ」

お互いの持ち物を把握しているのでそれは分かりきっていたことだ。せめて連邦で使われていた通信技術があれば様々な情報を検索することができるのだが、今はない。当然のことながらシースネークの拠点にも通信機器はなかった。

1.4.2 周辺の探索

すぐには良い方策が思いつかなかったので、とりあえず拠点の二人で周辺を探索することにした。希望的観測かもしれないが役立つ道具が落ちているかもしれない。私は廃材の山に目を向けた。長い年月を経て風化した鉄骨が積み上げられている。

「加工さえできれば鉄には困りそうにないのですが」

鉄を溶かすことのできる溶解炉を所持しているはずがなく、鉄を切断するための溶断器も持っていない。そうであれば鉄は廃材のままである。鉄以外にはコンクリートや石屑、かなり朽ちた木材などが散乱していた。

別の山に目を向けると箱型の機械が堆く積まれていた。らいあはその中から一つの箱を持ち上げると、躊躇いなく地面に叩きつける。カバーが破損して内部が露出した。中を覗き込む彼女に問いかける。

「何か見つかりましたか?」 「こんなものがあったぞ」 「それはコイルですね」

大きさからして変圧器に使われていたものだろう。少なくともこの機械が電気的な装置だったことがわかる。状態の良いものはおそらく残っていないだろうが、探せばいろいろな部品が見つかりそうだ。

機械の山を一通り見たのち、廃墟となっているコンクリート建造物や捨てられた重機なども探ってみた。元々の用途として使えるものはなかったが、何らかの道具や材料になり得えそうなものは幾つか見つかる。らいあも色々なものを拾っていた。

私はふと水面から高く伸びている鉄塔に目を向けた。これは何のための塔なのだろう。送電塔だろうか。それとも電波塔だったのだろうか。決定打となる痕跡が残っていないので判別が難しい。鉄塔について思いを巡らしていたところで、ふと情報を得るための一つの方法を思いつく。

「ラジオを作るのもいいかもしれませんね」

私の技術ではせいぜい簡易的なものしか作れないだろうが、試してみる価値はありそうだ。もしラジオを作れれば重要な情報源となり得る。

「じゃあ私は爆弾を作ろう」

らいあがいきなり物騒なことを言い出すので思わず凝視した。爆弾といえば思い出すものがある。

「私が最初に連れ去られた時にも爆発が起きていました。もしかしてらいあが引き起こしたものなのですか」 「そうだぞ。爆弾はらいあにお任せだ!」

彼女はあっけらかんとして答えた。もし死傷者が出ていたらどうするつもりだったのだろうか。彼女の考え方はテロリストのそれに近い気がする。さすがにこのまま彼女と行動を共にしていいものかと逡巡した。

しかし私は一旦冷静になろうと努めた。軽はずみに彼女を悪者のように考えるのはよそう。現代と未来では倫理観が違うのかもしれない。らいあの話によれば未来の私は都市を破壊するという思想を持っている。その助手であった彼女の考え方が隔たっていてもおかしくはない。

今の私たちは共闘関係にある。指揮権を委ねられているとはいえ、お互いの考え方を確認し合う必要はありそうだ。もっとも私自身が真っ当な考え方をしているとは思えない。何が正義で何が悪なのかさえよく分かっていないのだから。

正義といえば、正義の執行者という組織が未来の私たちと敵対するらしい。その組織は現在も存在しているのだろうか。すでにハニカムシティに潜入しているのだろうか。もし敵対組織が存在しているのであれば私たちに危害を加える可能性がある。

今の拠点がいつまでも安全とは限らないのだ。早急に情報を得なければならない。私は鉱石ラジオに使えそうな材料を集めて拠点に戻った。一方らいあはもう少し使えそうなものがないか辺りを探索してくるそうだ。

1.4.3 塹壕ラジオ

私が作ろうとしているのは塹壕ラジオだ。戦時中に兵士が娯楽のために作ったものらしい。半導体などの電子部品を使わないため拾ったものだけで作ることができる。私はラックを机の代わりにして工作を始めた。

細かい作業をするのは好きだ。幼少期にアルカトラズの機械を勝手に分解してしまい養父を困らせたことを思い出す。養父は今どうしているだろうか。釈放されただろうか。もし養父と連絡を取ることができたら強力な助けを得られるかもしれない。

塹壕ラジオは鉛筆と剃刀にいわば半導体の役割をさせることで動作させる。今回は剃刀の代わりにカッターナイフを使うことにした。他にアンテナとコイルを作るための銅線、鉛筆の芯に結合するための安全ピン、チューニングをするための2mm単線、コイルを巻くための木材を用意する。

作業に熱中しているうちにらいあが帰ってきた。拾ってきた物を私に披露する。その中には硝酸アンモニウムが含まれていた。工業用の爆弾にも使われる発泡スチロールの粒のような形をした物質である。どうやら彼女は本気で爆薬を作る気のようだ。できれば私から離れて作って欲しいところである。

しばらく作業を続けて完成に近づいたころ、私は重大な見落としにようやく気づいた。塹壕ラジオの音声を出力するためのクリスタルイヤホンがない。あまりの初歩的な失敗に意気消沈しているとそれに気づいたらいあが声をかけてきた。

「なにかあったのか」 「クリスタルイヤホンを忘れていました」 「そうなのか! 探してくるぞ!」 「いや、別に私が……」

自分でなんとかしようとする前に彼女は行ってしまった。一人になった私は反省する。優先順位を間違えてしまった。今の私はサバイバルをしなければならないという感情に捉われてしまっている。運良くラジオが見つかったらそれを使おうというくらいの気持ちでよかったのかもしれない。

気持ちを切り替えるのに時間がかかった。失敗は次に活かせばいい、私はうまくやれている、落ち着いていこうと何度も自分に言い聞かせた。ようやく気持ちが上向きになってきたときにらいあが帰ってきた。

「あったぞー! みが氏!」 「本当ですか!」

彼女が差し出してきたのは間違いなくクリスタルイヤホンだ。他のものと間違えたということもない。イヤホンが落ちていたのだから通信装置も落ちているのではないか、などとはもう考えなかった。

「私がいるからな」

らいあは私の目をまっすぐに見つめて言った。

「私がいるから」 「はい」

具体的なことは何も言わなかった。

でも、彼女の気持ちは伝わった。私は側にいる、もっと頼ってほしいと。らいあは少し前に私のことを味方だと言い切ったのを思い出す。彼女をもっと信頼していいのではないだろうか。私の彼女に対する認識が少し変わった気がした。

1.4.4 試作機

何度かトラブルはあったものの無事に塹壕ラジオの試作機が完成したので動かしてみることにした。

拠点の中では電波がうまく拾えない可能性があるため一旦外に出る。出入りでラジオが水に濡れないように防水シートで包んで保護した。それでも多少濡れてしまったが壊れていないことを願う。それから二人で電波の拾いやすそうな場所を探した。

高いところに登ると遠くがより見える。今朝の段階で現在のおおよその位置については見当がついていた。しかし、改めて鬱蒼とした森が延々と続くのを見ると、無用心に森に入ろうものならすぐに迷子になってしまうことが容易に想像できた。拠点が使えなくなったときのために森の方面へ進出することも念頭においているが今はまだ危険が大きいだろう。

一方らいあは塹壕ラジオに興味津々である。準備が完了するのを待ちきれないといった様子で私を急かした。

クリスタルイヤホンからの出力はきちんと動作しているようで、ザーザーというノイズが聞こえてくる。この原始的なラジオで受信できる周波数があるだろうか。この地域に電波が飛んでいるのだろうか。試してみなければわからない。

しばらく周波数の調整を試みたが、なかなか受信できるところが見つからない。らいあは焦れたように私に代わって調整し始めた。やはりというべきかうんともすんとも言わない。

らいあは急にラジオを叩こうとしたので止めようとしたが間に合わなかった。まさか未来では機械は叩けば直るという荒療治が推奨されているのだろうか。将来が心配になる。

「お? 何か聞こえたぞ!」 「本当ですか!」

クリスタルイヤホンを耳につけると微かながら音声が聞こえてきた。

『・・・ちら、天気は・・・』

私とらいあは顔を見合わせる。彼女は得意そうな顔をした。多少むっとしたがすぐに気持ちを切り替える。今重要なのは受信した音声の方だ。かなりノイズが混ざっているが集中すれば聞き取れないこともない。

1.4.5 情報部放送局

ラジオの音声は次のようなことを言っていた。

『天気はすごい晴れてるなー。太陽の匂いがする。たぶんいいことがある。明日は雨かー。晴れの方がよかったな。あったかいし。天気のコーナーは以上。情報部放送局でした』

随分と間延びした声である。らいあのそれに似ているかもしれない。それよりも気になることがある。

「情報部放送局と言っていました」 「そうなのか?」 「らいあが言っていた特務情報部のことでしょうか」 「わからない。でも関係があるかもしれないな」

ラジオ放送はそこで終わってしまった。いつ再開するかは分からないので周波数を固定して次に備えることにする。少なくともラジオ放送が受信できることが分かった。ラジオの情報を入手できることで可能性が広がる。定期的に確認することにしよう。

らいあの話によれば、未来の私たちが行った計画を破綻させたのが特務情報部である。それだけでも相当な技術力の持ち主であろうことは推測できた。先ほどの情報部放送局との関係は定かではないが、特務情報部が現在も存在している可能性はある。もし私たちと敵対するとしたらかなり厄介になるに違いない。

らいあも心なしか喜んでいるようだ。彼女はふいにこう言う。

「これで名無しも探しやすくなるかもしれないな」 「名無しですか?」

そういえば前にらいあは名無しを探したいと少しだけ話していた。少し気になる。

「らいあ氏」 「どうした?」 「名無しを探すのはあなた個人の目的ですか?」 「違うぞ。未来のみが氏に言われたんだ」 「私に?」 「そうだ。みが氏と二人で名無しを探せって」

これは初耳である。私はてっきりらいあの個人的な目的だと思っていた。しかし、名無しを探すというのが未来の私からの指示だとすれば、行動方針が大きく変わることもありうる。

もっと早くに説明して欲しかった。文句の一つでも言ってやろうと思ったが、説明されていてもいなくてもこれまでの行動に差はなかっただろうと考えて思いとどまる。行動が変わるとしたらこれからなのだ。

もし、名無しを探すとしたらこれからどうすべきだろうか。名無しというのは名前も戸籍も抹消された人々だ。政府も把握していないので探すのが非常に難しい。私自身について考えるとそれが真実であるということを裏付けている。私は名無しであるがそれを知っているのは養父の他にはいない。

養父であれば名無しに関する有益な情報を持っている可能性がある。しかし現在はメンバーに裏切られて逮捕されたと聞いた。会うのは難しいだろう。しかし養父のことだ、今頃は脱獄しているかもしれない。どこかで接触できないものだろうか。

地道な調査を続けていくということも大切だろう。例えば出来るだけ多くの文献などから情報を得ることだ。そうするためには本がたくさんある場所か、通信機器を使えるようにしなければいけない。聞き取り調査も有効かもしれないが一般人が名無しに関する情報を知っている可能性は低い。

ここまで考えて改めてらいあに向き直る。お互いの考えや認識にずれが生じないように情報を共有する必要性を感じたからだ。未来の私の指示をきちんと把握する必要がある。私は真剣な態度で提案した。

「らいあ。未来の話を聞かせてくれませんか。情報を共有しましょう」

1.4.6 情報の共有

らいあの話をまとめるとこうなる。

未来の私は研究所の所長であり、らいあは未来の私の助手として働いていた。二人は親子のような関係だったが、それでも互いのことは良き相棒だと認識していたそうだ。

私の性格に未来と現在で大きな違いはないらしい。同一人物なので当たり前の話だ。とはいえ以前の話にも含まれていた通り未来の私は都市を破壊しようとする。らいあはそんな私の計画に協力していた。

未来の私たちが戦っていた相手は正義の執行者、特務情報部、連邦軍といった具合である。反社会勢力の介入はなかったか尋ねたが、彼らは私たちとの抗争には参加しなかったそうだ。

彼女はそれぞれの組織について説明した。

正義の執行者はハニカムシティに乗り込んできた外部の組織である。彼らの主張は中立の立場から正義を模索するというものらしい。正義の執行者のリーダーをらいあは『エセ外交官』と呼んでいた。非常に高い戦闘力を有しているがそれ以上の人物が在籍しているらしい。できれば遭遇したくない相手だ。

特務情報部は国家の精鋭部隊である。その情報力は未来の私たちも認めており、彼らと情報の売買をしたこともあるという。元々は敵対的な関係ではなかったが都市を破壊する作戦には反対して敵として立ちはだかった。切れ者揃いの集団であり敵に回すと非常に厄介だとらいあは話す。

連邦軍はブレンダリア連邦の軍のことである。その規模と殺傷力の高い武器が脅威であり、さらにサイバー関連の攻撃が非常に強いらしい。未来の私たちは情報を掴ませないように苦心していたそうだ。

加えて未来の私は黒幕のような存在と闘っていたらしい。この点についてはらいあはほとんど情報を持っていなかった。私にはどうにも胡散臭く感じられる。敵対関係が一気に不可解なものになり未来の私の行動に矛盾が生まれるような気がしたからだ。しかし今は情報を共有することを優先する。

私も自分の知っていることをらいあに話した。

私は幼い頃にアルカトラズのリーダーに引き取られて育った。アルカトラズは絶海の孤島に拠点を持つ反社会勢力の一つである。アルカトラズは自然の要塞があるため防衛力が非常に高いのが特徴だ。物資の面では不利ではあったものの、敵を撃ち落とすための砲台や船も幾つか所持している。養父でもあるリーダーは部下の謀反により捕まった。

アルカトラズが特に警戒していたのはシースネークだ。この湖の拠点からも分かるようにシースネークは水中に陣取る特殊な反社会勢力である。海での戦いを得意としているためアルカトラズにまで攻撃が及ぶ危険があった。新しい組織であり常識に縛られない斬新な戦略が特徴的である。

他の主要な反社会勢力にはビーストテイル、ジッパーアント、ブラックバードが挙げられる。

ビーストテイルは荒野に拠点を構える一番大きな組織である。野獣のような気性の荒さで知られ力で圧倒していく豪快さが特徴だ。個人の戦力が一番高いのもビーストテイルである。

ジッパーアントは神崎重機というフロント企業を持つ技巧派揃いの集団だ。アリのように弛まず働き着実に勢力を広げている。らいあと取っ組み合いをしたときの工事現場にも神崎重機が関わっていた。

そして一番謎に包まれているのがブラックバードである。神出鬼没であり拠点がどこにあるも知られていない。カラスのような真っ黒な装束で唐突に現れるのが特徴だ。養父は一般の人々に紛れて生活している可能性について語っていた。

私が話したのはここまでだ。

これから行動する上で私たちの情報は武器になる。私とらいあが持っている知識は一般人が知り得ないものだ。特に未来の知識は切り札となるだろう。

1.5 第五章 朽ちた鉄塔の上で

1.5.1 じゃがいも発電

次の日。らいあは朝早くから水と食糧の確保に動き出した。そして私は気づいてしまう。サバイバルにおいて私は役にほとんど立っていないことに。

彼女はスラム街で育った経験から生き抜くための勘が働くらしい。現代人のほとんどは水が飲めるか飲めないかの判別ができない。しかし彼女はそれができるという。食べ物についても同様だ。私は全くできないので彼女に任せるしかない。

私にできることといえば無駄に体力を消費しない程度に周辺を調べるくらいだった。火を起こせるものや身を守るもの、情報になりうるものなどが落ちていないか調べながら歩く。

ラジオなどの通信機器が落ちていてくれたら嬉しいが電源はどうすればよいだろうか。

使用可能な電池が見つかれば一番早いが、残念ながら見つかったのは劣化して使い物にならなそうなものばかりだ。それでも念のために拾っておく。大きめのバッテリーも見つけたが重たいので今は持っていかなかった。

発電して電力を得ることについても考えてみる。いくつか思い浮かんだ中で私にも作れそうなものは磁石とコイルで電磁誘導を発生させるものと銅と亜鉛と塩水によって電気を得るものだ。

電磁誘導の方はコイルがすでにあるため磁石さえ手に入れば作ることができそうだ。磁石はよく使われる部品なので探せば見つかるだろう。例えばスピーカーだ。とはいえ懸念点が一つある。電磁誘導から得られるのは基本的に交流電流だということだ。私の電気知識では交流回路を考えることができない。

銅と亜鉛と塩水で得られる電気は直流だ。塩水の他にも果物を使うレモン電池などが知られている。他に有力そうなのがじゃがいも電池だ。茹でたじゃがいもであればレモンの10倍の電気を得られるらしい。問題は亜鉛がないことだ。

電池には亜鉛が使用されているが溶けてボロボロになっている可能性が高い。私は努めて亜鉛が使われているものを思い出そうとした。しかし、思い浮かぶものは亜鉛を含んだ合金ばかりだ。私は首を振って考えるのをやめる。切り替えが大事だ。

そこでふと廃墟の瓦礫となっているものが目に入った。トタンである。私の記憶が正しければトタンは金属の表面を亜鉛でコーティングしたものだ。もし状態の良いものが残っていれば亜鉛板の代わりとして使えるかもしれない。

私はふと思い立って先ほどのバッテリーのところに戻る。それからバッテリーをショートさせた。火を起こせるかどうか試すためである。結果は不発だった。

1.5.2 森の入り口

らいあはまだ帰ってこない。

私は湖で水浴びをして体の汚れを落とすことにした。それから服類を水洗いして干す。湖の水は澄み切っているが飲み水には使えないらしい。着る服は選べないので教育学校の制服に戻った。

それでもまだ時間がありそうだったので森の入り口の方まで行ってみることにした。

湖全体は廃墟と化しておりすこぶる足場が悪い。足を滑らせないように気をつけながら錆び付いた地面をゆっくりと歩いた。進むにつれて足場が金属から土や木の根っこや岩などに変わっていく。湿気が多いため木々や岩は緑がかっていた。苔についた水滴がキラキラと輝いている。

森の入り口。そう呼んでいいのか分からないが、一番足の踏み入れやすそうな場所へ向かった。森の中は生い茂った木々の葉で光が遮られて時間帯が分からなくなってしまうほど暗い。入り口の付近には枝や木の実などがまとめられていた。らいあが集めてきたのだろうか。

らいあの行動には迷いがない。未来でサバイバル術を学んできたのだろうか。私が知っているサバイバルの知識のほとんどは救助があることを前提としたものだ。しかし私たちの状況は異なる。逃げ隠れしながら生き延びていかなければいけない。そういう点ではらいあのように積極的に動くのは正しい対応なのかもしれないと感じた。

しばらくここで待っていると、らいあが色々なものを抱えて帰ってきた。背中のリュックもパンパンである。何を持っているのかと思えばベリーや食べられる野草などを見せてくれた。それに加えて魚まで獲ってきたのには驚いた。どうやって捕まえたのだろうか。

らいあのリュックには木の棒に鉄を括り付けた簡易的な斧がぶらさがっている。彼女は道具を有効活用する術を持っているようた。もしナイフやバールといった道具を見つけたら彼女に持たせたほうが方がいいかもしれない。

それから彼女は嬉しそうに報告した。

「洞窟があったぞ。使えそうな鉱石もあったし、あとは水源も見つけた」 「何と言うか……すごいですね」 「だろー?」

素直にそう思った。失礼な表現かもしれないが彼女は未来からやってきたというよりも、石器時代からやってきたといった方がしっくりくるほどサバイバルに長けているように見えた。彼女はリュックの中から麻袋をいくつか取り出して満足そうにこう言った。

「これでまた爆弾が作れる」

また硝酸アンモニウムでも見つけたのだろうか。できれば軽い振動で爆発するようなものは作らないでほしい。もしかすると彼女の見つけた洞窟は鉱石の採掘場だったのだろうか。そうであれば爆薬が残っていたとしてもおかしくはない。

1.5.3 朽ちた鉄塔の上で

それから二人で拠点の方に戻ってきた。らいあが設置していたラジオの方に目を向けてこう尋ねる。

「今日は何か受信できたか」 「いいえ」 「じゃあ、あの鉄塔の一番上に行ってみようぜ」 「あそこですか」

その鉄塔は火の見やぐらか竪坑やぐらのようだった。長年の浸食により少し傾いているが、土台はしっかりしているように見える。

らいあは鉄塔の近づき梯子を叩きだした。安全を確認しているのだろう。両手で持って体重をかけたり揺さぶったりしている。彼女は大胆な行動が目立っていたが実際は慎重な性格なのかもしれない。らいあは安全を十分に確認したのちに梯子を登り出した。行動してからはためらいがない。彼女が手招きするので私はそれに続いた。ラジオを脇に抱えて登る。

鉄はだいぶ錆びており表面はざらざらとしていた。手のひらに錆が付いて汚れる。高いところが苦手というわけではないがギシギシと音を立てる古い建造物を登るには多少の勇気が必要だった。下は見ないようにする。

高さは20メートルくらいだろうか。てっぺんまで登るとらいあが柵に背中を預けるように座っていた。私は柵につかまりながらゆっくりと近く。それから彼女の前にラジオを置いた。

イヤホンから聞こえるのはノイズばかりだった。とはいえを何らかの電波を受信しているらしく一瞬だけ音が聞こえることがある。私が調整に手間取っていると彼女がまたラジオを闘うとしたのでとっさに守る。その反動で調整が大きく変わり、音声が流れ始めた。さすがに二度目ともなると意図してやっている疑惑が出てくる。彼女は天才なのだろうか。

鉄塔の上にいたためか昨日よりも明瞭な音声が聞き取れた。音声の主は昨日とは別人だと思われる。私は耳を澄まして聞き取れた内容を口頭でらいあに伝える。

「一週間に渡って続いていたビーストテイルとジッパーアントの抗戦は政府が介入したことにより一時的に鎮まりましたが、ビーストテイルの勢いは止まらず一般人にも被害が広がっているようです」

どうやら反社会勢力の動きが活発化しているようだ。

「次のニュースです。世界人工知能連盟が超越的人工知能の試験が最終段階を通過したと発表しました。東京都の池袋会館で最初のデモンストレーションが行われる予定があるとのことです」

超越的人工知能が最終段階を通過したのはしばらく前の話である。この放送からわかるのはブレンダリア連邦が情報を規制しているということだ。どのようなデモンストレーションが行われるのかは純粋に気になる。

1.5.4 野うさぎ

ラジオを聞いている最中にらいあは呟いた。

「この電波はどこから来ているんだろうな」

今のところ他の放送局の電波は受信していない。最後まで聞いたが、やはり情報部放送局を名乗っていた。この電波はどこから発信されているのだろうか。

発信している内容にも不可解なものを感じる。昨日は天気についての放送だったのに対し、今日は反社会勢力や超越的人工知能などの社会的なニュースだった。

「まるで私たちが聞いていることに気づいているみたいですね」

口に出した言葉は思いの外しっくりくる。ピンポイントで私たちの欲している情報を流してきたからだ。考えれば考えるほど嫌な予感しかしない。

その時である。

「誰かが来た」

らいあが小声で忠告した。私の位置からは確認はできない。らいあは親指を立てて、そののち二本の指を立てる。おそらく男性が二人という意味だ。微かだが足音も聞こえてくる。かなり慎重に行動しているようだ。一般人ではないことだろう。

私たちは彼らの視界に入らないように伏せるようにして隠れる。男たちは廃墟の周りで何かを探しているようだった。こちらに気づいている様子はない。

しばらく息を潜める続いた。湖の拠点には気づかないのかった。興味がないだけかもしれないが、どちらにしても彼らがシースネークの成員であるという可能性は低いだろう。

私は鉄骨が想像よりも老朽化していたことに気づいていなかった。身を隠そうと体を隅に寄せた重みで鉄塔の一部が欠けてしまう。金属の崩れる音がした。

「誰だ!」

男たちがこちらに注目した。二人の足音が少しずつ近づいてくる。一歩、また一歩と。心臓の音がやけに大きく感じられる。そして鉄塔の間近にまで来たところでガサガサと動く音がした。男たちの声が聞こえる。

「……野うさぎか?」 「みたいだな」

何があったのかはわからないが彼らは鉄塔に興味を失ったようだ。少しずつ足音は離れてゆき、やがて二人の足音が完全に消えた。どうやら廃墟から出ていったようである。私は深いため息を吐いた。らいあが身を起こしながら言う。

「保険が役に立ったな」 「あなたが用意していたのですか」

らいあが鉄塔に野うさぎを仕込んでおいたようだ。いつの間に用意していたのだろう。驚くほどの危機回避能力だ。

彼らが何者なのか気になるところだが、まずは対策を練る必要がある。

「いったん拠点に戻りましょう」 「そうだな」

私たちは足音を立てないように慎重に拠点に戻った。

1.5.5 森へ

「逃げたほうがいい」

らいあが言った。彼女の言い分はわかる。先ほど男たちが現れたことによって状況が変わったからだ。なんの理由もなく廃墟に来たとは思えない。この周辺に止まれば再び遭遇する可能性が高くなると思われた。

「今からでも動こうぜ」 「待ってください」

とはいえ拠点を離れるリスクも無視できない。逃げている最中に遭遇してしまう危険があり、またどこに逃げればいいのかがわからない。

「どこか拠点にできそうな場所に思い当たりはありますか」 「うーん。洞窟かなぁ」

そういえば彼女は洞窟を見つけたと言っていた。

「悪くない案です。長期の潜伏には向いていると思いますか」 「向いてないだろうな」

同感だ。暖を取るために火を起こしたら、見つかるリスクが高まってしまう。ではどうすれば良いだろうか。拠点の確保と逃走を繰り返すしかない。

「まず洞窟に向かってから川沿いに下流に進むというのはどうでしょう」 「いいんじゃないか」

拠点を自力で確保するサバイバル生活を覚悟しなければいけないようだ。

「らいあ氏。これから洞窟の様子を見に行きませんか」 「すぐに移動したほうがいいと思うぞ」 「それもそうなのですが……」

自衛以外に気になっていることが一つある。

「ラジオの件があります」 「どういうことだ?」 「放送が私たちを知っているような内容だったのは覚えていますよね」 「もちろん」 「彼らが私たちを認知していると仮定した場合、さっきの男たちは別のグループである可能性が高いのです」 「そうなのか」 「そこまで気づいている人物が野うさぎに釣られるとは思いませんから」 「なるほど」

らいあは得心したように頷いた。

「みが氏は連中が敵かどうかを知りたいわけだな」 「そうです。理解が早いですね」

もし敵が一組なのと二組なのでは大違いだ。私はすべき行動を頭の中でまとめる。

「洞窟方面を探索して準備をしましょう。それから明日、放送の時間帯が過ぎたらすぐに移動しましょう」 「おう!」

日が暮れる前に往復しなければいけない。私たちは急いで荷物をまとめ、森の方面に向かった。

1.5.6 洞窟での遭遇

木々の背丈がそれほど高くないことや幹が細いことを踏まえると、森の年齢は数百年くらいだろうか。比較的若い森である。

案の定、森の中は非常に歩きにくかった。地面に傾斜があり枯れ木や草や石があるというだけなのだが、平らな道路を歩くことに慣れきっている私にはなかなかの肉体労働である。草に関しては丈の高い草はあまり生えていない。地面を覆う苔に苦戦している私を他所に、らいあはどんどん先に行ってしまう。

私は歩くのに必死ですっかり方角がわからなくなってしまった。しかし、らいあに迷っている様子は見られない。彼女は方向感覚が優れているのだろう。少しだけ羨ましく思ったが

しばらく歩くと地面の石が目立つようになってきた。昔は道があったような痕跡も見受けられる。図鑑でしか見たことがない鉱石もいくつかありテンションが上がった。それに比例するように息も上がる。道がどんどん険しくなってきたからだ。

そしてついにらいあの見つけた洞窟が見えてきた。入り口は想像していたよりも大きい。その荘厳さは穴が人工的なものではなく自然が形作ったものであることを証明していた。

らいあに付いていくようにして中を覗いてみる。入り口の光が差し込み、鉱石がそれを反射して幻想的な空間を生み出していた。

少し進んでみると人が作業していた痕跡が残っていた。洞窟の用途はわからないが何らかの鉱石を削り出していたのはわかる。

地面には石がごろごろあって想像以上に歩きにくい。また急に穴が狭くなっている箇所もあり慎重に進む必要があった。特に縦穴は落ちてしまう危険がある。

洞窟はほんの少し奥に進むだけでどんどん空気が冷えてくる。地中というのはこんなに寒いものだったのか。私は薄着だったこともありぶるりと身震いをした。

それなりに進んだところで彼女は不意に足を止める。らいあが呟いた。

「誰かいる」

ここまで洞窟は一本道だった。すぐに引き返すべきだ。しかし、らいあは苦い表情をした。

「……やられた」

奥にも前にも誰かがいる。コツコツと硬質な足音が洞窟内に反響する。私のものでもらいあのものでもない足音だ。嫌な汗が頬を伝う。私は必死に解決の糸口を探そうとした。

挟み撃ちになるのは避けたい。どちらかを選ぶべきだ。奥はおそらく一人。入り口の方はおそらく二人。攻めることだけを考えれば奥にいくべきだ。だが、私たちだけでどうやって打開すればいいのか。

「私が出る」

覚悟を決めたのだろう。らいあは自分の持っていたリュックに手を伸ばし、何かを手にした。彼女が日頃から爆弾について話していたことを思い出す。まさか洞窟内で爆発をさせるつもりなのだろうか。

らいあが駆け出すのと奥の人物が動き出すのは同時だった。

次の瞬間、彼女の強烈な回し蹴りを繰り出していた。しかし、私の目に映ったのは片手で軽々と受け止める男の姿だった。

らいあは足を下ろしながら、私に見せたことのない烈火の如き視線を男にぶつける。彼女は忌々しげにその名を叫んだ。

「エセ外交官め!」

1.6 第六章 ギブアンドテイク

1.6.1 外交官と呼ばれる男

「初対面のはずだが」 「抜かせ!」

外交官と呼ばれた男は疑問を口にするも訝しむような様子は見られない。対してらいあの方は完全に頭に血が上っているようである。これほど険悪な仲だったのか。未来の事情を詳しく知らない私は戸惑うばかりである。

余裕の表情で見下ろす男と怒りの形相で睨み付けるらいあ。気味が悪いほどに温度差のある沈黙を破ったのは外交官のほうだった。その視線はなぜか私に向けられている。

「状況をよく見ている。だがあと一歩足りない」 「耳を貸すな! みが氏!」

らいあは男の言葉を遮ろうとした。この男は未来では最も厄介な敵対関係になる人物らしい。彼女の反応は正常だと言える。とはいえ現在の関係は不明だ。情報を聞き出す必要がある。それも入り口の男二人に遭遇する前に。

「……どういうことですか」 「お前たち二人は洞窟の奥にいる俺と、入り口の方にいる奴らに挟まれていた。足音から察するに奴らは二人だろう。それでまず一人の方を制圧しようとした」

らいあは苦虫を噛み潰したような表情をしている。まるでこれから何を言われるのかを知っているかのようだった。

「決して悪い考えではないが、もう少し全体を見た方がいい。視点を変えるだけで策が増えるぞ。例えば俺の視点を考慮してみるとかだな」

そこまで聞いて彼の言わんとしていることを理解した。私は言葉を紡いだ。

「なるほど。あなたからすれば敵は4人。1対4はどう考えても不利。でも4人は2人ずつ敵対し合っていた。それならばあなたとしては私たちが勝手に消耗するのを待つか、私たちを取り込んで3対2に持ち込むのが得策というわけですね」

彼は満足げに頷いて肯定する。

「見事だな。そしてこっちの金髪のお嬢さんはそれに気づいていた。だからこそ後ろ手に隠しているものを使って俺を制圧しなかった」

らいあに目を向けると思いっきり歯ぎしりをしていた。彼女の私情はどうあれ、共闘しようとした相手が宿敵だったという事になる。聞かれたくなかった訳だ。らいあには悪いが選択肢は一つしかない。

「乗りましょう」 「物わかりが良くて助かる」

外交官は近づいてくる男たちの影に目を向けた。

「俺が不意打ちで一人を相手する」 「そして囮になっている間にもう一人を私たちが、というわけですね」 「満点だ」

私たちは岩陰に身を潜め、相手の視線が外れるのをぎりぎりまで待った。そして二人の視線が見当違いの穴に向かった瞬間に外交官が飛び出す。

「敵襲だ!」

そう叫んだ男は咄嗟に銃口を外交官に向けるが、即座に組み伏せられて弾が天井に外れた。乾いた銃声が洞窟内に響き渡る。もう一人が援護射撃を試みようとするが、仲間を盾にされて判断が遅れた。そして思わぬ横槍に舌打ちする。

「ちっ!」

私たちは男に向かって投石をしていた。致命傷は与えられないが銃火器を持つ相手に今できる反撃方法は石を投げるくらいしかない。私とらいあは投げてすぐ岩陰に隠れるというのを繰り返す。耳を擘くような銃声が響き、弾丸によって岩が削られた。男は傷を負いながらも一歩、また一歩と近づいてくる。

男はだんだんと投げつけられる石に慣れてきたのか、うまく防いでいる。私たちが同年代に比べて鍛えているとはいえ、武装した大人には敵わないのか。あと、ほんのもう少しで射程圏内に入る。

コツ、コツ、と靴音がして死の宣告が近づいてくる。

その足元にコロンと何かが転がった。

「!?」

男はそれを撃たなかった。彼は即座に距離を取る。それに合わせるようにらいあが岩陰から姿を現した。彼女は手のひらで転がしていたうちの一つを洞窟の奥に投げつけた。途端に爆音が響き渡り、地面が揺れた。それに被せるようにしてらいあが吠える。

「撃てるもんなら撃ってみろ! 全員道連れだ!」

おそらくらいあが所持している爆弾は一個だけ。しかし彼女の迫真のハッタリは十分すぎるほどに効いた。少なくとも外交官の存在を忘れさせる程度には。一瞬の隙で十分だった。外交官は武装した男の背後を取り、腕をひねりあげて即座に制圧した。もう一人の男はすでにロープで拘束されている。

私はその様子を見ながら身震いをした。らいあから外交官と呼ばれる男が厄介な相手であることは聞いていた。しかし実際に見るとその凄まじさが伝わってくる。どう見ても対人戦のスペシャリストだ。未来の私たちはこんな化け物と渡り歩いていたのか。

外交官は男の拘束を終えると、立ち上がって私たちに尋ねた。

「今更なんだが、こいつらは何者なんだ?」 「知りません」

私は制圧された武装集団に目を向ける。手足と口を塞がれてもなお、その目はまだ攻撃性を失っていなかった。正直なところ、早く立ち去りたい気分である。

そこでふいに外套に隠れていた胸元の紋章が目に入る。そのエンブレムには動物の尻尾が描かれていた。それは凶暴で攻撃的なことで知られる反社会的な勢力の一つ。私は思わず口にしてしまった。

「……ビーストテイル」 「ほう」 「!」

嵌められた。外交官と呼ばれるような男がビーストテイルを知らないわけがない。まんまと情報を引き出されたのだ。らいあがこの男を嫌う理由が少しだけ分かった気がする。

1.6.2 ビーストテイル

思わず呟いてしまったのは失態だった。それを外交官が聞き逃すはずもなく私に問いかけようと口を開く。しかしそれより先にらいあが私を庇うように立ちふさがった。男は肩を竦めて言う。

「そんなに警戒するな。敵対するつもりはない」 「お前に信用なんてない!」

彼女の威嚇は男には通用しなかった。その一言だけ告げると再び私に顔を向ける。

「俺は反社会勢力について興味があってな。知ってることを教えてくれないか」 「そんなことは自分で調べろ!」 「もちろん報酬を支払おう。金でもなんでも」 「この口達者が!」

相手は曲がりなりにも外交官と呼ばれるような人物だ。言葉で言いくるめられるのは目に見えている。私はこういった状況は想定していたが、が思ったよりも早くカードを切ることなってしまった。

「ギブアンドテイクは交渉の基本です。まずあなたが私たちに何を与えることができるのかを提示してください」

そう言うと男は5秒ほど私たちを見て思案する。それからまるで最初から答えを用意しておいたかのように流暢に話した。

「ふむ。君たちは訳ありだろう。例えば、何かから逃げている途中だったとかだな。だとすると……護衛などはどうだろうか。多少は戦力になると思うが」 「情報には情報を与えるべきではありませんか」 「すまないが腕は立つとはいってもこっちの方はからっきしなんだ」

そう言って頭を指差し男はとぼけた。冗談にも程がある。頭が回ることを見せつけておいて何がからっきしだ。一つわかったことは外交官は反社会勢力などについての情報を口にすることはないだろうということだ。

交渉は決裂か。いや、相手が話さないつもりなら、こちらも同じ土俵に立つまでだ。

「あなたの言うとおり私たちは訳ありです。しかし、あなたが情報を報酬としない私たちに関する情報は一切明かしません。それでもいいですか」 「ああ、もちろん構わない」

これはもともと明かすつもりはなった。しかし、あえて制限を加えたように見せることで少なくともこちら側の警戒心を伝えることができる。案の定、外交官は改めて数秒考えてからこう提案した。

「お前たちが望むなら、身分を隠してベル国に入国させよう」 「!」

まるで言葉の爆弾だ。要約すると密入国する手伝いをすると行ってきたのだ。そんなことがあり得るのだろうか。それができてしまうのが外交官と呼ばれる男なのだろうか

「少し彼女と相談してもいいですか」 「存分に話し合ってくれ」

私たちは外交官と距離を取り、相談する。

「らいあ氏。彼の言っていることは信頼できますか?」 「みが氏」

らいあは真剣な態度で私の顔を真正面から見た。

「私はあいつが嫌いだし、信頼もできない。でも、みが氏のことは比べ物にならないくらい信頼してる。みが氏が決めろ。私はそれに従う」

それはらいあの気持ちに関係なく私の判断で決めて良いというである。私の頭の中はどう交渉するのかが完成していた。

「わかりました」

私は外交官の方に戻る。

「話はまとまったようだな」 「おかげさまで」 「私たちの与える情報についても提示しておきましょう。一つの前提として私はブレンダリア連邦の教育を受けています」 「ブレンダリア連邦か」

男は少し意外な顔をした。おそらく彼ならこの話に興味を持つだろう。そして思った通り彼はは何かに気づいたように。

「なるほど。ブレンダリア連邦の情報は徹底的に秘匿させられている。まさかビーストテールについても学ばせていたとはな。つまりお前は連邦で教えられたビーストテールに関する情報を話してくれるというわけだな」 「そうです。あなたの提示したものと釣り合いますか」 「オーケー。交渉成立だ」

1.6.3 ギブアンドテイク

「この話は1年前に聞いたものです。現在進行形でどうなっているのかはわかりません」

前提をのち交渉材料となる情報を伝える。リスクが高いのでフェイクを混ぜることはしなかった。後から調べられて追求されたらたまらない。私が伝えたのは概ね次のような内容だ。

「ビーストテイルは反社会勢力の中で最も強い勢力とされており、暴力沙汰も厭わない攻撃的な集団です。人数的な規模も最も大きいと教わりました。これは先生の予想ですが10万人以上の巨大な組織だそうです。人の住み着かないような荒野を拠点にしていることが多いらしく、ジーラン国に属する旧モンゴル領の南部から旧中国領まで続く荒野に今までで最も大きいアジトが発見されました。ビーストテイルは徹底的な実力主義を貫いていて優秀であれば年齢や性別を問わず幹部になれます。実際に子供がスパイ活動をしていたり女性が隊を指揮したりしている姿が目撃されています。幹部は中国の幻獣である九尾にあやかって9人いるという噂がありました。それぞれの幹部の指揮下に隊があり、そこから枝分かれするように分隊が組織されているようです。構成員の中にはスラムの子供達や孤児などから引き取られて強く育てられた人々も多くいるため、貧民層からはむしろ好かれているとの話も聞きました」

外交官は黙って聞いていた。私が一通り話し終えると、納得したように頷く。

「なるほど。情報提供に感謝する。ところで、これは護衛をするうえで最低限聞いておきたいことなんだが、お前たちはビーストテイルに狙われているのか」

難しい質問ではない。しかし、私たちに関する情報は一切話さないという条件があった。さて、どう切り返したものか。いくつかの返答を考慮して、ここは正直に話した方が得策であることに気づく。

「わかりません。ですが、これだけは言っておきます。私は政府の組織や反社会勢力などのどこかに属しているということはありません」

それを聞いて男は感嘆したような表情をした。彼は遠巻きに反社会勢力に属しているのか、将来的に戦うことになるのかを聞いていたのだ。

「よくこちらの質問の意図を理解できたな。そうか。それはよかった。仮に反社会勢力の一員だとしたら護衛して手助けした後、いつか敵対するかもしれないなんて気分が悪いしな」

しかし、残念ながら未来では敵対関係になっている。

外交官はすっかり気を失っている拘束された二人を見下ろしながら話を続ける。

「護衛はすぐに必要か。俺はこいつらを突き出す必要があるから、最短でも明日からになる」 「最速で頼みます。しかし私たちには連絡を取る手段がありません」 「ならこれを使え。使い方は何となく分かるだろ」

そうやって外交官は通信用の機器を私に渡しながらこう言った。

「名前を名乗っていなかったな。俺の名前は芹川一也だ」

男の言葉の流れで私たちも軽く自己紹介する。

「みがです」 「らいあだ」

らいあはやや不貞腐れながらだが、はっきりと自分の名前を言った。外交官は私の顔とらいあの顔を交互に見てから言い。

「みがにらいあか、良い名前だな。じゃあ必要になったら呼んでくれ」 「待ってください」 「うん? 忘れ物か」

まだ一つやり残したことがある。

「そこの二人の所持品、私たちが分捕ってもいいですか」 「お前たちが……?」

男は虚を突かれたような顔をしたのち爆笑した。

「ハッハッハ! 分捕りの許可を求められたのは生まれて初めてだぞ! お前たちのしたいようにしろ。ただし、銃はだめだ」 「弾丸もですか?」

私の言葉に反応したのはらいあだった。びっくりしたようにこちらを見ている。

「好きにしろ。もう他に質問はないよな。じゃあ後日また会おう」

そう言って男は去っていった。

私たちは外交官が十分離れたのを確認したのち深いため息をついた。

「あんなのが私たちの敵なのですか。どう見ても化物じゃないですか」 「うーん?」

彼女は珍しく首を捻っていた。

「未来でもずっと敵対していたからな。少なくとも私の記憶の中では限り、あいつはずっと敵だった。でも今がどうなのかっていうのはよくわからない」 「そうでしょうね。敵対せずにいられるのなら、そうしたいところです」 「私は散々苦戦させられたし、一泡吹かせてやりたいけどな!」 「一人でやってください」

私がやれやれと首を振っているとらいあが声をかけてきた。

「みが氏。さっきの弾丸ってもしかして」 「らいあ氏の爆弾作りの役に立つかもと思いまして」

私は弾丸をらいあに渡した。弾丸からは火薬を得ることができる。らいあは上機嫌な声を上げた。

「ありがとな!」

そんな彼女に水を差したくはないのだが、らいあにとっては実に都合の悪い話が一つある。

「らいあ氏。先ほどの外交官ですが、ものすごい譲歩していました」 「うん?」 「真っ先に思い浮かぶべきことでしたが、ビーストテイルの情報を聞き出したいのなら武装していた二人に吐かせればいいのです。あの男には容易いでしょう。しかし、ビーストテイルの情報を得るということのために護衛を申し出たということは、つまり、そういうことです」 「うがー! あいつめ! 馬鹿にしやがって!」

らいあが憤慨するのも無理はない。彼が自力で手に入れることのできた情報をわざわざ私たちに話させることによって護衛を受けられるようにした。つまり彼のしていたことはギブアンドテイクという皮をかぶった単なる慈善事業なのである。私たちはまるで子供扱いだ。

そんな気持ちがもやもやすることもあったが気持ちを切り替えて、空が茜色になる前に私たちは拠点に帰還する。幸いなことに帰りの道では何も問題は起きなかった。

1.6.4 戦利品と敵の情報

拠点に戻ったのち、明日に向けて急いで支度を備え始める。

ビーストテイルの男二人から分捕ったものは軍用ポンチョ二着とナイフとファイヤースターター、そして弾薬だ。ここで火起こしの手段を得られたのはは大きな意味を持つ。弾薬については早速らいあが分解して爆弾に仕立てているようだ。洞窟でらいあに助けられたことから、爆弾に対する恐怖心が若干和らいだ気がする。

私は防水シートをカバンに改造する作業に着手する。ポンチョを得たことにより簡易的なシェルターの役割を代用できるようになったので、余った防水シートを有効活用しようというわけだ。

作業を進めながら先送りにしていた問題について考える。それはビーストテイルと執行者がなぜあの洞窟にいたのかということについてだ。偶然とは思えない。意味もなく来たということはないのだろう。なんらかの目的があったはずだ。

彼らの目的は一体なんだったのだろう。可能性を思い浮かべてみる。シースネークの痕跡を探していたとか、あるいは洞窟がビーストテイルの拠点の候補だったとかだ。最悪のケースは私たち自体がターゲットになっていた場合だ。とはいえ、私たちが襲われる理由が弱い。あり得るとしたら私たちがこの拠点を使用していたことでシースネークの一員だと勘違いされているパターンだ。

「どうしてこうも敵の情報ばかり集まってしまうのでしょうね」

私はぽつりと言葉を零す。らいあが外交官が呼んでいた男は未来で正義の執行者というグループに所属していたらしい。洞窟で銃火器を持った相手を制圧していった様子を思い出して気が重くなる。

「あんな化け物と渡り歩くことを考えると頭痛がします」 「あれでも正義の執行者の主戦力ではないぞ」

らいあの口からさらっと聞き捨てならない台詞が飛び出してきた。

「あれで主戦力ではないというのですか。正義の執行者たちは人間を止めているのですか」 「そういえば人間を止めているような奴が一人いたな。熊みたいなやつで電車を持ち上げて放り投げるようなやつだ」 「考えたくもありません」

さすがに電車を持ち上げるというのは比喩表現だろうが、想像を絶する戦力を有していることを覚悟しておくべきだろう。とはいえ、あんな化け物たち相手にどうやって対処すればいいというのだろう。頭は回るし腕も立つ。少なくとも今の私たちでは力不足であり下手に刺激しないのが得策に思えた。私が敵の脅威について考えているとらいあが情報を補足する。

「でも一番やばいのはあの女だ」 「あの女? それは誰ですか」 「正義の執行者の、あー、そういえば名前は知らない。でも、とにかくみが氏を執拗に追いかけてきたぞ。最後の最後まで噛み付いてきて本当に厄介だった」 「何ですかそれは……ストーカーですか?」 「かもな」

どうにも頭の中の会いたくない人のリストが増えていくような気がした。考えるだけで気が重くなる。頭を切り替えるようと彼女に気になっていたことを尋ねてみた。

「そんなチート集団相手に未来の私はどうやって抵抗していたのですか」 「他の勢力をうまく誘導してぶつけていたな」 「なるほど」

実に私らしいやり方に思えた。少なくとも今の私は自ら攻撃を仕掛けるようなことはしない。敵が勝手に消耗してくれならそれでいい。らいあが思い出したように付け加えた。

「そういえばビーストテイルに腕っぷしであいつに負けないやつが何人かいたな」 「聞きたくなかったです」

あいつとは外交官と呼ばれている男のことだろう。

「思い出した! 腕っ節一つで隊長に上り詰めた女! あの女は名無しだぞ」 「そういう重要なことはもっと先に言ってください」

こんなところで最初の名無しの情報を得るとは思わなかった。よりにもよって怪物じみた力の持ち主だという。未来の私は名無しを集めるように命じたようだが、その女を仲間に誘うのは当分はやめておいたほうが良さそうだ。

1.7 第七章 決死の逃亡

1.7.1 折句

次の日。日が登る前から私たちは行動を開始していた。

もうこの拠点に戻ることはないだろう。私は浄水器を取り外して荷物に詰めた。可能な限り私たちの痕跡を消す。それから全ての持ち物を背負い外に出た。

ラジオの電波が届くまでギリギリの時間まで待つつもりでいたが、恐ろしいほどあっさりと放送を受信する。まるで私たちの行動を監視されているようだ。

内容は何気ないニュースに思えたが不自然な言葉の区切り方からそれが折句であることに気づいた。句の最初の一文字をつなげて読むと文章になる言葉遊びである。メッセージの内容はこうだ。

『連邦軍接近。あじよしで待つ』

あじよしという未知の単語が気になったが疑問はすぐに氷解した。放送の最後にこんな宣伝が入っていたのだ。

『世界一おいしい煎餅屋さんはなんだろな。あじよし、あじよし、だよー。おばあちゃんの焼いたパリパリもちもち美味しいお煎餅。食べたら始めたらやめられなくなーる』

最初の放送で聞いた間延びした声だった。もはやこの放送が私たちに向けられたものであることに疑いの余地はない。

煎餅屋についても気になるが、緊急に対応すべきなのは連邦軍が接近しているという報告についてだ。少なくともいいニュースではないだろう。どこから私たちの情報を入手したのかはわからないがすぐさまこの場を立ち去るべきだ。

「急ぎましょう、らいあ氏!」 「わかった!」

私たちは湖の拠点を去り、洞窟の方面へと駆け出した。バックの中から連絡をするために外交官から預かっていた通信機器を使用する。早朝であったがすぐに繋がった。

『よう! みが坊とらいあ坊だったな!』

昨日とは違い親しみの感じさせる声が聞こえた。私は手短に要件を伝える。

「ええ、護衛をお願いしたく」 『了解、今向かっているところだ。場所はあの洞窟でいいか?』 「お願いします。それから……」

連邦軍が接近している旨を伝えるべきか否か逡巡した。そこでふいに疑問がよぎる。彼は何と言っただろうか。今向かっていると言った。なぜこちらが連絡する前に動いているのだろうか。私がしばらく無言でいると相手の方が先に踏み込んできた。

『連邦軍が近づいているんだろう?』 「なぜそれを?」 『説明はあとだ。1時間以内に着く。それまで何とか逃げ延びてくれ』 「わかりました」

通話はそこで終了した。口調が昨日よりもずっと友好的に感じた。気を抜くと未来の敵対関係を忘れてしまいそうになる。そこがまた恐ろしく感じた。しかし今は当面の脅威に注意を払うことにしよう。

「1時間後には到着するようです」 「ふん!」

らいあの機嫌が悪い。相変わらず外交官が嫌いなようだ。できれば会いたくないのだろう。とはいえ、そうも言っていられない状況なのは彼女も理解しているようであり、それ以上の文句は言わなかった。

1.7.2 決死の逃亡

洞窟に向かい始めてすぐにその音に気がついた。軍用ヘリの音が近づいてくる音である。それは湖の付近で止まり、何人かの軍人がロープを使って着陸を試みていた。見間違いでなければ彼らは連邦の軍服を来ている。嫌な予感しかなかった。

それはらいあも同じだったらしく私たちは目を合わせて頷く。木々の茂みに身を隠しながら一心不乱に走った。軍人たちが廃墟をして私たちの痕跡を見つけるのは時間の問題だろう。かつてなく緊迫した状況に肝が冷えた。

私のほうはブレンダリア連邦の出身ということになっているので見つかっても保護される可能性があるが、らいあの方はわからない。連邦軍が私たちのことをシースネークの一員とみなしていたら投獄されてしまうだろう。そうなれば命の保証もない。絶対に捕まるわけにはいかなかった。

一度通った道だからか昨日よりはスムーズに進むことができた。私は息を切らせて走りながら彼女に尋ねる。

「洞窟で待つべきだと思いますか?」

昨日の段階では洞窟で待つという予定だった。連邦軍は追跡にも熟達している。わずかな痕跡から私たちの居場所を見つけ出すことだろう。足跡などはある程度カモフラージュできるかもしれないが訓練された警察犬などの探知方法を所持していたらどうしようもない。洞窟で待機していては連邦軍に追いつかれる可能性が高くなる。

しかし、どこに逃げたところで見つからない保証はどこにもない。なにより私たちを護衛するという外交官とすれ違うのは避けたい。私の葛藤を他所にらいあは短く答えた。

「逃げたほうがいい」 「なぜですか?」 「なんとなく」

理由はなかった。とはいえ彼女の勘は無視できない。ラジオの件などで彼女の直感には何度か助けられた。私は答えの出ない問答を捨ててらいあの直感に頼ることにした。迷っている暇などない。

「行きましょう。先導してください」 「任せろ!」

私たちは南の方角に進んだ。森の中は非常に歩きにくい。そのうえ重い荷物も背負っているので、何度もつまずきそうになった。らいあは悪路に慣れているようで動きが軽やかだ。

らいあは逃げるのと同時に追っ手の対策もしていた。わざと行き先と違う方向に木の枝を曲げたり足跡のフェイクを残したりして追跡を困難にするようにして進む。

「川がある。渡ろう」

私は彼女に手を引かれる形になった。膝まで水に浸かりながら川を渡る。水は足跡や匂いの痕跡を残さないため追っ手を巻くのに撒くのに有効だ。

基本的に遭難した時は川沿いを下るのがセオリーとされている。しかし、らいあはそうはせず目的地を決めているかのように迷いなく進んだ。

「らいあ氏。私たちはどこに向かっているのですか」 「橋を探してる」

そう答えた彼女の意図をすぐには理解できなかった。

川を越えると道が急に険しくなる。終わりのないように思えた起伏を越えると森林地帯を抜け視界が開ける。常識的に考えれば敵に見つかりやすい危険な場所だ。どこかに隠れることは難しいだろう。砕けた岩で形成された山地をしばらく走ると徐々にそれが見えてきた。

「あった!」

それは非常に深い谷だった。恐る恐る近づくと下は切り立つような崖になっている。足が震えるがそれが恐怖からなのか疲労からなのかもはや判断がつかない。ここに落ちたら命はないだろう。

そして、そこには錆びついた鉄橋が架けられていた。レールの残骸も残っている。らいあはためらうことなく橋に近づいた。私もそれに続く。

らいあはリュックの中から筒状のものを取り出して鉄橋の支点となっている箇所に設置した。間違いない。爆弾だ。そこからロープを伸ばしてその先に火を付ける。

「走るぞ!」 「はい!」

らいあが叫んだ意味は説明されなくてもわかった。絶対に転んではいけない。慎重に、しかし全力で走った。50メートルほどの鉄橋を駆け抜けて数秒後、爆音が轟いた。爆風が頬を撫でる。橋を構成していた金属が深い谷に落ちていくのが見えた。一瞬でも遅れたらと思うと冷や汗が流れる。

この爆音は敵に知られるリスクを高める。らいあは早まった行動をしたと言えるだろうか。爆発から一分も立たないうちに追跡していた軍人が到着して、彼女の判断が正しかったことが証明された。もうすぐそこまで私たちは追い詰められていたのだ。その軍人は今はただ落ちた橋を見つめている。

最悪の事態は免れたとはいえ、もたもたしている訳にはいかない。しかし。

「痛っ……」 「みが氏! 大丈夫か!」 「わかりません……足がかなり痛みます」 「骨折か!?」 「折れてはいないと思いますが……」

爆発に巻き込まれなかっただけ幸運だったが、あまりに急いだせいで転んでしまい足を痛めてしまった。おそらく捻挫だろう。

「大丈夫です……行きましょう。らいあ氏」

ここは足を引きずってでも逃げる場面だ。正直なところ、この足でどこまで逃げられるか見当もつかない。それでも大丈夫と自分に言い聞かせた。まだ選択肢はある。あるはずなのだ。私は自分を叱咤して無理に立ち上がろうとする。らいあは珍しく焦ったような様子で私を見ていた。しかし、らいあは首を大きく振って両手で自分の頬をビシッと叩く。彼女は決意したような様子ではっきりと言った。

「ここで待とう!」 「正気ですか?」 「そうだ」 「ああ、なるほど」

らいあの意図が分かった。当初の予定では私たちは洞窟で待つことになっていた。しかし状況が変わって逃げることになった。外交官はどうすれば私たちの居場所に気づくだろうか。この爆発が良い目印になる。らいあは外交官がこの爆発に気づくことに賭けているのだ。

「わかりました。待ちましょう」

私がそう答えると彼女は私を支えて大岩の陰まで連れて行ってくれた。あとは一刻も早く外交官が見つけてくれることを願うのみだ。

非情なことに連邦軍の対応はあまりにも早かった。橋が壊されたと知るや否や、すぐにヘリを飛ばしてきた。この辺りに私たちが隠れていることはわかっているだろう。付近に着陸するつもりなのだろうか。そうなればもう対処しようがない。

ところが軍の行動は想像を絶するものだった。軍用ヘリがまっすぐこちらを向くように旋回して極めて恐ろしいものをこちらに向けた。

「ミサイルを打ち込むつもりか!?」

さしものらいあも驚愕をあらわにした。私もただただ絶望の声を漏らす。あのヘリに搭載されているのは対戦車用ミサイルだ。それが発射されればすべてが終わる。私は死を覚悟した。

1.7.3 亡命

「借りるぞ」

外交官の声がした。ピンと風を切る音がして硬質な何かがヘリの後方に直撃する。直後に爆発が生じた。テールローターが損傷してヘリはバランスを失い照準がずれる。パイロットが一瞬だけ意識を外したようだ。その隙に見事な投擲を決めたであろう人物によって私は抱きかかえられ森の奥に連れて行かれた。らいあも遅れずについてきている。

どうやら外交官はらいあの爆弾を投げたようだ。おそらく強い衝撃で爆発するたいぷの爆弾である。一瞬でその性質を見抜いて寸分違わぬ精度で投擲する男の技量に戦慄した。らいあの方はというと、自分たちが助かったことの安堵と、勝手に爆弾を使われたことの憤りがごちゃまぜになっている。

私は外交官の脇に抱えられているという情けない状態のまま愚痴を零した。

「遅かったのではありませんか。依頼を追加しますよ」 「洞窟にいなかったのはそっちだろう」

状況にそぐわない軽口を叩き合う。外交官が向かった先にはベル国の軍用トラックが停車してあった。私は放り込まれるように運転席の隣の席に座らされ、らいあが私の隣に飛び込んですぐに急発進した。発進の反動で私の体が浮きそうになるのをらいあが咄嗟に押さえる。外交官はそれを横目にしつつもさらに速度を上げて言った。

「運転は荒いから気をつけろ。舌を噛むなよ」 「車の運転にはその人の本性が出ると聞きますが」 「緊急事態だ。我慢してくれ」

トラックが木の根っこや石を乗り越えるたびに車体が大きく揺れる。そのたびに体が浮き上がりそうになるがらいあが抱き寄せるようにして私を捕まえていてくれた。それと同時に外交官に対する威嚇も見せる。私は体をどこかに打ち付けないようにしばらく頭を守っていた。

外交官がハンドルを左に大きく切りながら私に尋ねる。

「大事なことを聞き忘れていたが、どこに向かえばいい?」

私は少しの間、逡巡する。外交官はベル国に入国させると言っていたが目的地については述べていなかった。そして私はベル国についてはあまり知らない。そこで一つだけ気になる場所を思い出した。

「あじよしを知っていますか?」 「ああ、知っているぞ」

意外な回答だった。放送によれば煎餅屋ということだったが有名な場所なのだろうか。あるいは情報部放送局として知られているのだろうか。

「それはベル国にあるのですか?」 「うむ」 「ベル国にはあとどれぐらいで着きますか」 「このままかっ飛ばして1時間半といったところだ」

彼は前を向いたまま続ける。

「ところでみが坊、足を怪我しているだろう。どこか適当なところで手当てをしてやる」

らいあが噛みつかんばかりに威嚇していたが、私の容態を心配しているのか何も言わなかった。私としても痛いのはどうにかしたい。結局、森を抜けたあたりで路傍に停車し、その間に湿布をもらってらいあに貼ってもらった。

私はトラックの中での会話を警戒していた。重要な情報を引き出される危険があるからである。可能ながら相手の情報を聞き出すことができれば良いのだが、そちらにはあまり期待していなかった。

外交官が飄々とした口ぶりで世間話を始める。

「昨日お前らに会ったことを妹に話したんだがこってり怒られてしまってな。何ですぐに保護しなかったのかと説教されたぞ。しかも今日は期間限定の幻のシュークリームを買ってこいと無茶なお願いをされてしまった。手ぶらで帰ったらさぞかしおかんむりだろうな」 「随分と仲がよろしいようですね」 「昔は可愛かったんだがな。全くうちのお姫様はいつのまにこんなにわがままになってしまったのか」

うちのお姫様という言葉にらいあが反応した。私もその様子を見て思い出す。らいあの話に出てきた私のストーカーのような女の話だ。正義の執行者のメンバーの一人であり私を執拗に追い回していたという。会話の流れからしてその女がこの男の妹である可能性が高くなった。

「お前たちにとても会いたがっていたぞ。今度見つけたら絶対に連れてこいとか紹介しろとか。まだ会ってもいないのに随分と気に入られたな」 「それはどうも」

もう目をつけられてしまっているのか。頭が痛くなりそうだ。その女には申し訳ないが絶対に会いたくない。

「どうも捨て猫を見つけると放っておけない性格らしくてな。今じゃうちは動物園だぞ」 「私たちは犬猫ですか」 「おっと、これは例え話だぞ」

挑発されているのか冗談なのかがわからない。おそらく後者だろう。今のところ敵視されていないだけ良しとしよう。できれば敵対することなくやり過ごしたいところだ。

会話をしつつも車は順調に進む。トラックは軍事施設を連想させる大きな門に近づいた。おそらくここが国境検問所だ。警備隊が周囲を監視している。私とらいあはポンチョで頭を覆い、外から見えないように体を低くした。

検問官がトラックの運転手を見ると、すぐに通行の許可を出した。らいあはエセ外交官と呼んでいたが、もしかすると本当に外交官という地位を得ているのかもしれない。難所だと思っていた地点をあっさりと通過してしまった。

こうして私たちはブレンダリア連邦を離れてベル国に亡命したのである。

2.1 第八章 らいあの独白

生きるために生きる。

2.1.1 私のヒーロー

みが氏が全てだった。私を掃き溜めのような場所から掬い上げてくれた恩人。たった一人で数百の敵を翻弄する知者。世界の深淵を知りうる唯一の傑物。私を鍛え上げ数々の知恵を授けてくれた慈愛の象徴。私の大好きな人だ。

彼女の考える作戦はどれも心躍るものだった。連邦軍の妨害をみが氏が何度もひっくり返したことを今でも鮮明に覚えている。敵の司令官を前にしても全く動じずに最善の一手を投じる様はまさに英雄そのものだった。

都市解放作戦を遂行していたときには多少追い詰められたが、私はみが氏が逆転の妙手を隠していると信じていた。そして当然のように鬼才の策略は想像を遥かに上回る。私はみが氏によって10年前の過去に送られることになったのだ。

私、らいあは時代を遡ることに何の不安も感じなかった。みが氏の指示に従っていれば全てはうまくいく。この身ひとつで廃墟の湖に住むことになっても変わらない事実であり、10年前のみが氏を見つけさえすれば必ず私を導いてくれるはずなのだ。

この時代のみが氏はロシアの小学校に通っており、接触のチャンスは進学の時期に訪れる。みが氏は入学式の日にハニカムシティに潜入するので、そこで落ち合えば良いのだ。私はいつものように都市付近を爆破して交通を混乱させて機会を伺った。

ついに虚無を見据えるような瞳を見つけたとき、ひと目でみが氏だと分かった。見間違えるはずがない。心の花が満開に咲いたような気持ちになり、そうなって初めて私は一人きりで寂しかったのだと自覚した。みが氏がいれば他は何もいらない。

そしてみが氏が私の変装を見抜き、小学生とは思えない機転と棒術で逃れようとするのを見て思わず笑みが溢れた。私の憧れたみが氏は10年前でさえ隠しきれないほどの才覚を発揮している。臨機応変に判断をするその聡明さに私は驚いた。

警備兵から逃げるときも、みが氏は私の大雑把な指示で的確に動いていた。他の小学生には真似できないだろう。私自身、みが氏が小学生であることを忘れていた。トラックの下に乗り込んだときに遅れずに付いてきただけでなく、トラックの軌道や音から大体の距離や方角を計算していたらしい。未来で何度も敵を戦慄させてきたその頭脳が健在であることに私は無性に誇らしくなった。

湖の拠点に到着したとき、私は言った。

「ただいま」

みが氏がいる場所だけが私の家なのだ。それに今も未来も関係ない。一緒に居られればそれだけでいいのだ。

2.1.2 小さな背中

みが氏がいれば私は最強だ。恐いものは何もない。彼女に間違いなんてあり得ないのだ。

そして私の期待を裏切らず冷静に状況を整理している。私はいろいろと伝えたいことがあった。このアジトのことを話して、案内して、次の方針を立ててもらうのだ。しかし、みが氏はそれを遮り、私に尋ねた。

「あなたは何者なのですか」

そうだった。この時代のみが氏はまだ私のことをよく知らない。みが氏はこの状況をどのように打開していくのだろうか。私は興味津々だ。

「私の名前はみら……間違えた!」

危ない。前の名前を名乗るところだった。私には未来のみが氏に付けられた新しい名前があるのだ。らいあ。この名前を私はとても気に入っている。

「らいあちゃんだぞ! 10年後の未来から来たんだ」

私は未来から来たことを伝えた。みが氏は一瞬面食らったような表情をしていたがすぐに冷静さを取り戻す。さすがみが氏だ。そしてお互い、みが氏、らいあ氏と呼び合うことに合意した。

そこで不意にみが氏が尋ねた。

「あなたは私に危害を加えますか。味方ですか?」 「味方だぞ。当たり前だろー」

私がみが氏に敵対するなんてありえないことだ。天地がひっくり返ってもそれはありえない。私たちは味方だ。みが氏は私を絶対に私を裏切らない。

みが氏は私の話を一通り聞いた後、拠点の探索を始めた。みが氏は冷静かつ着実に物事を進める。途中で浄水器や火起こしの道具について尋ねてきたのは、どのように生き抜くかを考えているためだろう。

私はみが氏が多くの苦難を経験したことを知っている。でも決して取り乱してパニックになることはなかった。そんな彼女だからこそ、私は安心して付いていくことができる。

探索の後は互いの持ち物をリストアップしていった。私が何気なく拾ったものまですべて挙げて、どう活用できるかを考えている。

私は真剣なみが氏を見て、不思議と穏やかな気持ちになった。みが氏の顔を見ていると安心する。未来でもそうだった。

そうしているうちに眠くなって、未来でもそうしていたように体が冷えないように抱きしめあって寝た。

そうして初めて、みが氏が私のよりも小さいことに気づいた。私の知っている抱きしめてくれる存在ではない。そこにいるのは私がすっぽりと抱きしめてしまえるほど小さな一人の女の子だった。

私は使命感に燃えた。私はただ守られる側じゃない。私がみが氏を守ってあげちゃくちゃいけないんだ。

2.1.3 肉、肉、肉

汗が頬を伝って地面に落ちた。水分を含んだ服が体にぴったりと張り付いている。

スクワット、ランニング、格闘技の型の基礎、仮想敵との戦闘訓練。叩き込まれた強化メニューを淡々とこなしていく。私は強くなければいけないのだ。そうでなければみが氏を守れない。

たとえ過酷なサバイバルの最中でも変わらない。生き延びるだけじゃだめなんだ。

そのためにどうしても必要なものがある。食糧だ。必要なのはタンパク質。十分なカロリーを得られなければ筋肉は落ちる。それを得るのに非常食だけでは足りない。

肉、肉、肉。

狩りは体力を大きく消耗する。そのためサバイバル時の狩りは推奨されない。槍で戦うのは危険が多く、罠を使ったものは成功率が極めて低い。一日中かけて一匹も捕まえられないことなどしょっちゅうだ。

私はない頭を働かせる。今ある武器で大型動物を捕まえるのは難しいだろう。狙いは兎などの小動物か魚だ。鶏肉は理想的だが散弾銃でもなければ捕まえられそうにない。

ふいに草むらが揺れた。頭を出した兎がこちらを見ている。しかし、警戒が強くすぐに逃げられてしまった。狩猟はそう簡単にいかない。

肉、肉、肉。

私は適当な棒を拾い、ツルで両端を結んで簡易的な弓を作ってみた。一本の木では弾力が少なく十分な威力が出せない。羽もヤジリも用意できないので精度の高い矢を作ることができない。

人間が動物に勝る唯一の身体能力は持久力だ。執念が私を突き動かす。小動物をひたすら追いかけて、追いかけて、追いかけた先で仕留めた。運動エネルギーが獲得したものよりも多いことは自覚している。

まだだ。まだ足りない。額にぐっしょりとかいた汗を拭い、森の奥を見据えた。スラム街で飢えを感じながら食料を盗んで生きていた頃とそれほど変わらない。生きるために奪い、奪ったもので生き延びる。

私は震える足をバシッと叩いて、また一歩、森の奥へと踏み出した。

みが氏を守るために。私が生きるために。そして美味しいものを食べてもらうために。

2.1.4 私がいるからな

動物を追い回しながら昨日のことを思い出していた。

みが氏がラジオを作ると言い出したとき、私はもやもやとした感情に襲われた。ラジオ作りは電子工作の中でも特に簡単なものだ。それを未来で国家最高峰の英知を手にしたみが氏が作るということに違和感を感じてしまったのだ。

私はこれまでみが氏の驚異的な発明を見てきた。彼女はハッカーも顔負けな情報力を持ち、エンジニアも真っ青になるくらいの技術力を持っていた。理想とはかけ離れた原始的なことを行わせることに、私は少なからぬ不満を感じたのだろう。

それと同時に挑まなければならないことの大きさと、一から始めないといけない過酷さに改めて気づいた。私は敵の強大さを知っている。それに対して何も持たない私たちがどうやって闘うというのだろう。

私はみが氏がなんとかしてくれると思っていた。でも、みが氏が困ったような顔をしているのを見て自分の考えの愚かさを知った。

「何かあったのか」 「クリスタルイヤホンを忘れていました」 「そうなのか! 探してくるぞ!」

私がみが氏を支えて、みが氏が何とかしてくれる。そんな風に私は無意識にみが氏に縋っていた。たぶん今もそうだ。でも、それではだめなんだ。

だったらどうすればいい。考えがまとまらない。考えることは苦手なんだ。ぜんぶみが氏に押し尽きてきたから。そんな私のことを未来のみが氏はどう思っていたのだろう。今のみが氏に対してできることはなんだ。

がむしゃらに探していたらイヤホンが見つかった。まとまらない答えもちゃんと探せばみつかるのだろうか。私は急いで戻り、みが氏にイヤホンを差し出しながら言った。

「私がいるからな」

自分でもどうしてこの言葉が出てきたのかがわからない。咀嚼するようにもう一度言った。

「私がいるから」 「はい」

みが氏は得心したような顔をしていた。私にはそれが何なのかがわからない。ぜんぶ教えてほしい。そののちラジオは無事に完成し、多少のトラブルはあったが無事に受信できた。

そして今日。

兎を一匹と、魚を数匹取ったところで拠点に戻ることにする。帰る途中で人がいた痕跡を見つけた。それから拠点に帰り、みが氏をあったことを報告する。

それから、もう一度ラジオの受信を試みることになった。念のために兎を囮として忍ばせておく。ラジオの音声を一通り聞いたのちに厄介な連中が囮に引っかかった。ビーストテイルという凶暴な連中だ。

「逃げたほうがいい」

拠点に戻ってすぐに私は言った。奴らは危険だ。

「今からでも動こうぜ」 「待ってください」

しかし、みが氏は慎重だった。先のラジオの一件で確かめなければならない点があるという。盲点だった。

それから一時的な拠点探しに二人で森の洞窟を調べに行くことになった。疲れてはいるが、まだ動ける。サバイバルでは動くか休むか、その判断で命が左右されることもある。今は動くべき時だ。

何とか洞窟までたどり着いて一安心したのも束の間、最悪の事態が生じた。ビーストテイルが入り口から進入してきており、洞窟の奥には別の人物がいる。つまり、挟まれたのだ。そして奥にいる人物を見て驚愕した。

「エセ外交官め!」

未来で散々苦しめられた因縁の相手だ。とてつもない切れ者で、人脈が凄まじく、常に大胆不敵で、戦力としても私の知る限り五指に入るぐらい強い。秘密裏に各国の重要人物と繋がっており、国家の均衡を保つ働きをしている非公式の外交官だ。

今の私ではこの男に勝つ可能性がないことを自覚して、あまりの悔しさに歯軋りした。

2.1.5 嫉妬の理由

「初対面のはずだが」 「抜かせ!」

飄々とした口調で反応する男に対してさらに苛立ちが募った。私は完全に頭に血が上っているのを感じつつも冷静になれそうにない。男は私を無視してみが氏に語りかけていっそう神経を逆撫でした。

「状況をよく見ている。だが後一歩足りない」 「耳を貸すな! みが氏!」

私はこの男が何を言おうとしているのか気づいている。それは私を怒らせるのに十分すぎた。みが氏は短いやり取りののちに理解を示す。

「なるほど」 「見事だな。そしてこっちの金髪のお嬢さんはそれに気づいていた。だからこそ後ろ手に隠しているものを使って俺を制圧しなかった」

つまりこの男はみが氏を私より下だと見なした。私はこの上ない屈辱を感じる。さらに私の武器を看破され、こちらから共闘を申し出るように誘導した。最悪な気分に浸りながらも話は進んでいく。

みが氏は私よりずっと賢くて私はその補佐に過ぎないのに。もやもやした考えで頭がいっぱいになる。

「乗りましょう」 「物わかりがよくて助かる」

それから入り口の二人を制圧するのはあっという間だった。途中のハッタリは成功したがほとんどはこの男の手柄と言える。

「いまさらなんだが、こいつらは何者なんだ?」

さらりと罠を仕掛けてきた。この男がそれを知らないわけがない。未来のみが氏ならこんな見えすいた罠に引っかかるわけがないが、こちらのみが氏はまだ経験不足だった。

「……ビーストテイル」 「ほう」

ほらきた。それから情報を引出された挙句、護衛という名目の監視まで付いてきた。みが氏は私に意見を伺うが、私の選択肢は一つしかない。

「私はあいつが嫌いだし、信頼もできない。でも、みが氏のことは比べ物にならないくらい信頼してる。みが氏が決めろ。私はそれにしたがう」

わかっている。この男は私を苛立たせるだけで悪人ではないのだ。ただこの男が私よりも有能で頭も切れるという事実と、今この状況でみが氏がこの男の力を借りるだろうことに嫉妬しているのだ。

みが氏が私と共闘する険しい道を選んでくれる保証はどこにもない。未来と今では状況が違うのだ。私はどうしても不安になる。みが氏が一緒に居てくれるなら私はどこまでも頑張れる。でももし居なくなったら、私はどうすればいいのだろう。

交渉の結果、この男の助けを借りてベル国に亡命することになった。

結局、私は曖昧な嫉妬と不安を抱いたままでいる。

2.2 第八章 ベル共和国

2.2.1 入国

私は軍用トラックに揺られながら新天地に思いを馳せていた。私と仲間のらいあは反社会勢力に首を半ば突っ込んだという理由でブレンダリア連邦から追われる身となっている。亡命国はベル共和国だ。

少しずつ車から見える景色が変わっていく。どうやら共和国の領地に入ったようだ。この辺りの地理についてはよく知らない。教科書の写真で少しだけ見たことがあるぐらいだ。

発展途上国にありがちな騒然とした生活をイメージしていたが、周りを見る限りそのようなことはない。連邦ほどは発展していないが十分に文明的な国のように見えた。

街はきちんと区画に分けられており道を進むにつれてその密集度は高まっていく。工業区画らしき場所には鉄筋コンクリートや鉄塔などの建築物が目立ち木造建築はほとんどない。ところどころに煙突が立っておりそこから煙が立ち上っている。

住居区画に入るとレンガ造りの家や石で作られた聖堂のようなものが見えてきた。歴史ある建物群の中に人々が移り住んで発展したというような印象である。その景色は私の育った国とはまるで違うものであり新鮮に感じた。

都市に近づくにつれて道は狭くなってゆき行き交う人々が増える。さまざまな民族が入り混じって生活しているようだ。連邦も国際的だが基本的に北欧人が多い。それと比べるとベル国はアジア系の人々が多いように感じた。

露店や屋台などの客引きの声があちこちから聞こえ活気に溢れている。

はっきりとは視認できなかったが路地の奥まった暗がりなど若干の治安の悪さも感じた。また道は所々にゴミが散乱しており連邦ほどは清潔ではないように思える。とはいえスラム街と呼ぶほどではないだろう。

他には駅や病院や役所などの主要な施設があった。看板などに書いてある文字は読める。連邦の教育課程での言語学習が役に立ったようだ。おそらくこの辺りが街の中心部なのであろう。

車一台すれ違うのが精一杯な狭い道をトラックは進み、そこから少し開けたところにトラックを止めた。見るからに高級そうなデパートの前である。

外交官と呼ばれる男は車を降り黒髪の少女に声をかけた。髪を左サイドに一つにまとめており、真面目でキリッとした印象を受ける。カジュアルにドレスを着こなしており、人々の服装と比べても、かなりお洒落をしているようだ。

黒髪の少女は気だるそうに男に言った。

「……こんなところで何してんのよ、かず兄」

2.2.2 妹

かず兄と呼ばれた男は大袈裟なジェスチャーをしつつ話を逸らす。

「奇遇だな妹よ。買い物か?」 「そうよ、悪い?」

奇遇だとは微塵も思っていないであろう兄に対して妹は怪訝な表情を見せたが、その注意は別の一点に注がれている。私たちを凝視しているようだ。明らかに怪しまれている。

「ていうか車に乗せている女の子たちは誰? ちょっと見せなさい!」

妹は問答無用でトラックに入ってきた。そして私とらいあを見るなり声を荒げる。

「何よあなたたちボロボロじゃない! それに足も怪我してる! 手当てしなきゃ! ほら早く付いて来なさい! 肩を貸してあげるから! ほら、かず兄、ボサッとしてないで手伝いなさいよ!」

妹は有無を言わせず私たちを車の荷台の方に連れて行った。車の荷台は箱型のコンテナになっており外から中が見えないようになっている。妹は周りに人がいないことを確認すると、おしゃれなポーチから簡易的な医療キットを出して、私の足の傷を消毒して包帯を巻いた。

その躊躇のなさや判断の速さはらいあに似てる。違うところといえば私たちは服装にきわて無頓着であり彼女はそうではないというところだろうか。どうやら妹の方はその点は妥協できないらしい。

「かず兄はそこで見張ってて! この子たちの替えの服を買ってくるから待っていなさい!」

そう言って駆け足で店の中に行ってしまった。兄の方はというと肩を竦めて首を振る。

「ああなった妹は俺にも止めることができん。大人しく待っているしかない」 「そうですね」

ふと気づくとらいあは私の手を握っていた。思えば先ほどから口数が少ない。さっきの少女を随分と警戒しているようだ。

目の前の男とその妹は未来では強大な敵だったらしい。そしてその二人が現れたのだ。現状は敵対する様子はないが不安は大きいのだろう。

そうこうしているうちに手早く買い物を済ませたであろう妹が戻ってきた。そして兄を追い出し、私たちと一緒にコンテナに入る。彼女は新品の洋服を広げながら話しかける。

「私は芹川悟理(せりかわさとり)。あいつの妹よ。あなたたちは?」 「みがです」 「……らいあだ」

私は淡々と、らいあは渋々といった様子で答えた。

「みがちゃんとらいあちゃんね。そう呼んでいい?」 「はい。私も悟理さんのことを『とりぴー』と呼んでいいでしょうか」 「オーケー。さ、早く着替えましょ」

冗談半分で言ったのだが、文句がないようなので今後は『とりぴー』と呼ぶことにする。ついでに彼女の兄のことは『かずにー』と呼ぶことにしよう。

とりぴーは私たちを強引に着替えさせようとしたのでさすがに戸惑ったが、私は足を怪我していたので甘んじてそれを受け入れた。着替えは私とらいあの二人分がある。

着替え終わった私たちを見てとりぴーは満足げに頷いてこう言った。

「ほら可愛くなった!」

私が着替えたのはシンプルなデザインのワンピースだった。胸のあたりからスカート部分が長く伸びており、全体的にヒラヒラしている。こういうタイプの服は着たことがないので落ち着かなかった。

らいあの方はジャケットとスタイリッシュなパンツ。動きやすそうなので私もそちらが良かった。まだこの国の物価については何も知らないが決して安い買い物ではないだろう。私は心配を口にする。

「私たちにはお金がありません」 「そんなことは気にしなくていいの!」

兄をジトっと見据えてとりぴーは強めに尋ねた。

「で、どうしてかず兄はこの子達を連れているのかしら? どうしてあんなにボロボロだったのよ? 理由を聞かせてくれる?」 「すまないが詳しいことは話せない」 「はぁ?」

兄がそう言うと少女はすこぶる機嫌が悪そうに詰め寄る。

「俺も詳しい事情は知らないんだ。これから二人を安全な場所に送る予定だ」 「じゃあ私も行くわ!」 「車は三人までなんだが」 「後ろに乗れるでしょ!」

可憐な服装と違ってなかなか豪胆な性格である。私たちの素性を明かせない以上、できれば遠慮してほしいところだが、このままでは意地でも付いて来そうな勢いだった。

「妹よ。付いていってあげたい気持ちはよくわかるが、様子を察するにこれから予定があるのだろう? ほったらかしていいのか」 「ぐ……確かに春菜を待たせちゃ悪いし……」 「そういうことだ。この子達は俺が無事に送り届けるから安心しろ」 「後できっちり顛末を話してもらうからね!」

そう言ってとりぴーは心配そうな顔をしながらも雑踏の中に消えていった。初対面でこれほど心配されるとは思わなかった。なるほど未来の私たちが苦戦するわけだ。できるだけ関わらないようにしよう。

「まぁ、なんだ。ああいう奴なんだ。ちょっと面倒に感じるかもしれないが、仲良くしてやってくれると嬉しい」

それは聞けないお願いだとは言えずに黙って頷いた。

2.2.3 あじよし

目的地であるせんべい屋の『あじよし』は都市から少し離れた住宅街の一角にあった。この辺りでは珍しい風情のある木造建築で、入り口には木の板に達筆な字で『あじよし』と書かれている。中にはさまざまな種類のせんべいが並んでいて、普通の店のよう思えた。本当にこんなところに情報部がいるのだろうか。

ここまでの護衛という名目のボランティアを終えた男が言った。

「依頼はここまでだったな。もう少し手伝うか?」 「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」

丁寧に断ると、男は神妙な表情をして呟いた。

「ギブアンドテイクとか言っておいてなんだが、お前たちは妹に気に入られている。何か困ったことがあったら連絡しろ。必ず助けにいく」

それから男はトラックに乗り込み去っていった。

私とらいあは顔を合わせて頷く。激動の連続だったが、なんとかここまでたどり着いたことができた。私たちは束の間を安堵を得る。これから先のことはまったく分からないが、今は目標を達成できたことを喜ぶげきだろう。

しかし、らいあはしきりに周りを見渡して落ち着かない様子である。それから私に顔を寄せて小声で耳打ちをした。

「監視がいる」 「なんですって」 「おそらく情報部の連中だ。さっきの男とは雰囲気が違う。私たちを監視している奴が一人。遠巻きに指示を出しているらしき人が一人。合計二人」 「すごい観察力ですね」 「まったくだ」 「いえ、あなたのことですが」

私は全然気づかなかった。これまでの騒動で注意力が散漫になっていたのかもしれない。気を引き締める必要がありそうだ。一方らいあはあれほどのことが起きてもけろりとしている。一体どんな世界で育ったのだろうか。ぜひ平穏な未来を願いたい。

私はらいあに尋ねた。

「監視は私たちに危害を加えそうですか」 「こちらを見ているだけだ。何かを仕掛けてくる気配もない」 「どうしましょうか。関わらない方がいいでしょうか」 「うーん」

珍しくらいあが悩んだような様子を見せる。情報部はそれだけ厄介な連中なのだろう。らいあは打ち明けるように話す。

「未来の特務情報部は本当にわけのわからない連中なんだ。敵でも味方でもない。こっちの行動を妨害するようなことは最後の一件以外は一度もなかった。それでもなぜか、こっちの情報はいつも筒抜けなんだ。気味が悪い」

敵でも味方でもないか。直感で動けるらいあが悩んでいるのであれば私が決定するべきだろう。

正直なところ無防備な状態で『あじよし』に入って良いのか迷う。ここまで来ておいてなんだが接触は避けたほうがリスクは低い。

しかし、それ以上に私たちには情報が少なすぎる。もしここで踵を返してどこかに逃げようとしても野垂れ死ぬ可能性だってあり得る。私たちは一文無しだ。それに加え私は足に怪我を負っている。

私は覚悟を決めた。

「入りましょう」 「わかった」

彼女は二つ返事で頷く。私たちは自分たちの緊張とはかけ離れた、落ち着いた雰囲気の店に足を踏み入れた。

2.2.4 情報部との接触

「いらっしゃいませぇー」

間延びした声が店内に響き渡る。ラジオで聞いた声と同じものだ。この店に情報部がいることは確定した。しかし、声は聞こえてきたのだが誰も応対に出てこない。私は少し考えて店の奥に向かって話しかけた。

「連邦軍から逃げてきました」 「それは知ってる。レジの横から入り、左手の扉を開けたまえ」

指示の通りに進む。扉の向こうは茶室のだった。一人の少女が正座している。フードを目深に被っていて顔はよく見えなかった。少女は間延びした声で話しかける。

「よく来たな。とてもえらい」 「それはどうも」

偉そうにしているのか、戯けているのかよく分からない。彼女に手招きされるままにテーブルの向かいの座布団に座る。お茶と菓子が用意されており、客としても出なされているようだった。

「それで君たちは何ようかな?」 「ラジオ放送の放送でここを知りました。ここが情報部で合っていますか?」 「おー!」

少女は急に机に体を乗り出して、私の顔を興味深げに覗き込んだ。それから何事かをぼそぼそと話す。よく見ると彼女の耳には装置が引っ掛けられている。おそらくイヤホンとマイクだろう。監視をしていた連中と連絡を取っている可能性は高い。

「わたしたちがその情報部。来てくれたのが嬉しさ。お菓子、もっと食べるといい」 「はぁ」

口調は少し変わっているが普通に喜んでもらえてるようだ。どんな頭脳戦が待っているのか戦々恐々としていたので拍子抜けをする。この少女が未来の特務情報部だという想定は低く見積もった方がいいだろうか。ただ、この言動もフェイクである可能性があるため気が抜けない。

なんだか最近ずっと気張っているような気がする。どこかでゆっくり休みたいものだ。

「わたしたちは情報と情報を交換する。戦いとかはやらない。君たちたちは何が知りたい?」 「私たちは……」 「ちょっと待つ。ぶちょー、早く来い」

少女は私の言葉を遮って、部屋の中に二人の男を招く。男というよりは少年だろうか。私たちと同年代な気がする。恐らく監視をしていた二人だ。これで3対2の構図になり万が一の場合に不利になってしった。二人のうち一人が私たちに話しかける。

「よーっす! おれが情報部の部長だろぃ! よろしくな!」 「……」 「いや待てよぃ、気まずいって! こんなおちゃらけた奴は受け付けませんオーラ出てるって!」 「ぶちょー、早く話すすめて」 「あ、はぃ」

少女に諌められて部長が話を立て直す。本当にこの人たちが情報部なのだろうか。自信がなくなってきた。

「こんなメンツだけど一応、情報部っていうのをやっているぜ。この子が言ったとおり、お金じゃなくて情報と情報交換するっていう形で依頼を受けているんだ。情報の信頼性は折り紙付だぜ」 「……反社会勢力に関する情報も扱っていますか」 「もちろん」

間髪入れずに答えが返ってきた。あまりのためらいのなさに一瞬身震いする。彼はこう続ける。

「あーでも、それなりに希少性の高い情報を提供してもらわないと、情報は交換できないね。危険度が高いから、さすがに」 「なるほど」

希少性の高い情報か。私はつい最近使った情報を思い出す。

「ではブレンダリア連邦による教育の内容というのはどうでしょうか。私は連邦の教育を受けました」

そこで初めて部長と呼ばれた少年が表情を引き締めた。他の情報部のメンバーに確認を取る。

「どう思う?」 「僕はありだと思う。連邦の教育内容が秘匿されているのは事実。リーク情報はあるけど、本人から聞ける機会は貴重だよ」 「わたしもいいと思う。興味深い」

話がまとまったようだ。

「おーけー。その条件で取引しよう。それで具体的には何が知りたい?」

2.2.5 取引

必要な情報はなんだろうか。私は思案する。

私たちを襲ってきたビーストテイルに関する情報を知りたいし、湖の拠点として使用したシースネークについての詳細も知りたい。ジッパーアントやブラックバードなど現時点でほとんど接点ない勢力についての情報も知りたい。私は心の中で天秤をかけた。

「……アルカトラズの元リーダーの消息について」

これを聞いて情報部の少年は驚いたようだった。

「いやぁ、驚いた。アルカトラズという名前が出てくるのもリーダーが現時点で交代しているのを知っているのもな」

それから真面目な表情に戻り続ける。

「アメリカが二分されているのは知っているだろ。アルカトラズの元リーダーは新体制アメリカの監視下で投獄されていたんだけど、半年前に脱獄して逃走したんだ。新旧アメリカ、ブレンダリア連邦、そしてベル国で指名手配されている。元リーダーは今ところ見つかっていない」 「それで十分です」

義父なりに活発に動いているようだ。少なくとも生きているようなので安堵する。旅を続けていれば、どこかで遭遇するかもしれない。

「他に知りたいことはあるかい?」

まだ情報を提供してくれるようだ。少年の問いに私はすぐに答えた。

「名無しについて」 「……あぁ、なるほどね」

少年はその言葉を聞いて何かに感づいたようだった。勘が鋭い。どうして私たちの接触する人々はこうも頭の回る人たちばかりなのだろうか。

「その情報はかなり希少性が高い。それを聞いたら他の情報は出せなくなる。それでもいいかい?」 「構いません」

名無しについては情報部でも集めることが難しいのか。私たちだけで調べるのに限界がある以上、ある程度友好的な関係で進めることが望ましい。

「名無しについてはほとんど知られていない。名無しっていうのは名前も戸籍も奪われた子供たちのことだ。孤児や捨て子と違うところは、情報をかき集めてもいっさいの素性が分からないこと。10年ぐらい前から見受けられるようになったんだ」

10年前という数字は初めて聞いた。少年は説明を続ける。

「名無しは生まれつき非凡な才能を持っていて、逆境の中でも大半は生き延びているらしい。その才能を欲しがって反社会勢力が秘密裏に引き取るケースが多い」

名無しは非凡な才能を持っている。私やらいあにもあるのだろうか。私がアルカトラズに拾われたのはそのためなのだろうか。

「おれたちの知る限りでは少なくともビーストテイルに一人、ジッパーアントに一人、シースネークに一人いる。ブラックバードについては謎に包まれているけれど、複数人所属していると見積もっている」

やはり名無しを探すなら反社会勢力との接触は避けられないようだ。私は一つの疑問を口にする。

「反社会勢力以外にいる可能性は?」 「否定できない。あり得るのは孤児や養子として個人に引き取られるパターンかな。実際に引き取られたという情報はおれたちでも得ていないから、いても少数だとは思うぜ。名無しという立場で一人で世界を生き抜くのは大変すぎるだろぃ」

ジッパーアントに名無しが一人いるというのは私たちも既に得ていた情報だ。彼らも同じ情報を得ていたことによって信憑性が増した。

今回の取引の成果は焦点を反社会勢力に絞れたことだろう。個人の養子になっている場合は今のところ探しようがない。大まかな目星がつけられただけでも大きな進展だ。

「では、私も対価の情報を話しましょう」

ここで私はブレンダリア連邦での教育について相手が納得するまで話した。情報のやり取りはここで終了となる。

「以上、という感じだな。実りある取引だった。ありがとう」 「こちらこそ」

あっさりとした幕引きだったが下手に突っ込まれるよりずっといい。情報部はこれからも私たちの役に立ってくれるかもしれない。私たちが席を立つと、少女が私たちを見送ってくれた。

「では失礼します」 「じゃーなー」

そして、場所を変えるため『あじよし』から適当に5分くらい歩いたのち、らいあが私に声を潜めて耳打ちした。

「……まだ監視が続いている」

2.2.6 提案

らいあの視線の先を追った。石造りの塀とひときわ背の高い木の陰になっていて気づかなかったが、わずかに人の気配がする。らいあが出て来いと言わんばかりに数秒間そこを見据えると、先ほどの場では言葉を発しなかった情報部の少年が出てきた。

「ごめん、危害を加える気はないんだ」

相手は参ったというような仕草をして私たちの前に姿を表す。それにしては見るからに落ち着いている。何ら気負いのない口調で少年が続ける。

「君たちの様子からなんとなく察したんだけど、寝泊まりする場所にあてはあるのかい?」

まんまと看破されほんの少し肩が動いてしまった。それを少年が見逃すはずもない。さすがに危機感を抱いたのからいあも警戒を強めた。少年は私たちが動く前に言葉を付け加える。

「待って。追い詰めようとしているんじゃない。僕は隠れるのにちょうど良い場所を知っているんだ」 「……要するに、さっきの取引の続きですか」 「うん。そういうこと」

罠だろうか。私はらいあと視線を通わせるがわからないといった風に首を振った。私は一つの疑問をぶつけてみる。

「さっきの場で持ち出さなかったのはなぜですか」 「部長はこういう介入は良しとしないからね。個人的に動きたかったまでだよ」 「なるほど」

確かに少年の言う通り宿のあてがない。このままでは野宿することになるだろう。足の怪我 も治っていないため、できるだけ安全な場所に泊まりたいところだ。

しかし取引に使えそうな情報は、私たちにとっても重要なものだ。下手に情報を売って不利益を被りたくはない。

(そういえば……)

そこで私たちにとっては価値がなく、かつ彼らにとって貴重かもしれない情報があることに気づいた。

「これでどうでしょう」 「それは?」

私が取り出したのは湖の拠点で見つけた謎の文鎮である。興味深いものではあるが今の私たちには無用の寵物だ。私一人の技量では解析はできないだろう代物であった。私は淡々と説明。

「シースネークのアジトで見つけたものです。これが何なのか私たちにはわかりませんが」 「ちょっと見せてもらってもいい?」 「どうぞ」

少年は私から文鎮を受け取り、何らかの器具で測定を始めた。

「微弱な電磁波が計測できる。周期的なシグナルが発信されているようだね。内容まではもう少し解析してみないとわからないけど」 「それは交換材料になりますか」 「うん、十分だよ」

少年は私たちが隠れるのにちょうど良いという場所について説明をしてくれた。

どうやらその場所はベル国も他の国の人々も安易に入り込めない場所らしい。今は封鎖されているらしいが私たちが入れるくらいの抜け道が用意されているとのことだ。行き方も詳しく教えてくれた。

「僕もまあまあの訳ありでね。僕も昔使っていた場所なんだ」

そういうことらしい。別れ際に少年は言った。

「また情報部においでよ。解析結果が君たちにも関係があるかもしれないし、あの子も喜ぶから」 「わかりました」

これで今度こそ情報部との取引は終了だ。少年は帰って行き、その姿が見えなくなるまで待った。

「ちょっとみが氏いいか」 「どうしたんですか」 「盗聴器とか付けられてたらまずいからな」 「なるほど」

らいあは自分と私のボディーチェックを始めた。幸いそういった類のものは見つからなかった。らいあは周りをじっくりと見渡してから言った。

「もう監視はいないな」 「一安心ですね」 「そうだな」

私は深く息を吐いた。

2.3 第九章 電波塔へ

2.3.1 電波塔

ようやくらいあと二人きりになれた。他の人がいると内密の話が進まなくて困る。らいあのことを完全に信用しているわけではないが、今のところ一緒にいて一番落ち着く相手ではあるようだ。

「さて、どうしましょうか。罠の可能性もありますが」 「まずは行ってみようぜ。その時はその時だ」

確かにそうだと思い私は頷いた。らいあがいつもの調子に戻ったようで安心する。

「さっきまであまり喋りませんでしたね」 「誰かがいる時にあんまり喋るなと言ったのはみが氏の方だろー、ん? そう言ったのは、未来のみが氏だったか?」

どうやら私の指示だったらしい。とはいえ現在の私にとっては無縁のものだ。未来の自分の行動にまで責任は持てない。らいあには好きに行動してもらおう。

「今後は普通に喋って大丈夫です」 「そうする」

さて、行き先は決まった。この街から田舎の方に進んだ先にところにある電波塔である。足の怪我がまだ治っていないので、なんとか日が暮れる頃には着きたいものだ。

「おんぶしてやろうか」 「大丈夫です」 「遠慮するなよー。そのほうが早いだろ」 「それもそうですが」

らいあのが背負ってる荷物を見る。彼女は食料を含めてたくさんのものを運んでいた。これ以上らいあに負担をかけるのは気が引ける。この場に荷物を置いていくというわけにもいかない。往復させるのは効率が悪い。

やはり、ゆっくりでも自分の足で行った方がいいだろう。そう答えるとらいあは落ちていた枝木で即席の松葉杖を作ってくれた。器用なものである。若干脇がきついが、ないよりはだいぶましになった。

「器用ですね」 「だろー」

臆面もなく答える。彼女のこういう自分を偽らないところを私は気に入っているのかもしれない。ありのままが一番楽だ。高慢になっても卑屈になっても何もいいことはない。

二人でゆっくりと街道を歩く。

石造りのレンガの道路はでこぼこしていて歩きにくい。歩行者はまばらだ。こちらを注視する人もいない。自分たちが怪しまれないか不安だったが取り越し苦労だったようである。たまに足は大丈夫なのかと声をかけてくれる親切な人がいる程度である。至って平和な街だ。この国にいると逃亡生活が嘘のように感じられる。

私はベル国の多様性が興味深かった。というのもブレンダリア連邦は統一意識が強かったため家の造りなどに個性を出すことはまずない。良くも悪くも平等であることに誇りを持っているのだ。飾るとしても内装だけだったように思う。そのためブレンダリア連邦の町並みは無機質なものになっていた。

この街は自由に庭を作ったり植木を植えたりしている。とても不思議な感覚だ。良し悪しの類ではない。ただ新鮮さを感じていた。

らいあも同じだったのだろうか。キョロキョロと辺りを見回しては、これは何だろう、あれは知っているかなどと頻繁に私に声をかけてきた。私は記憶の隅から樹木の名前や花の名前などを思い出しながら答えた。会話が尽きなかったせいか、森の方に辿り着くまでの時間があっという間に感じられた。

森の周辺にはほとんど家はなかった。ぽつんぽつんと人が住んでいるのかわからないような廃屋がいくつかあるくらいだ。

辺りを見ると遠い昔に農耕をしていた痕跡が見受けられる。地面は平らになっているが草木が伸び放題で手入れされている様子もなかった。森の手前は藪で覆われている。本当にこんな場所に電波塔があるのだろうか。けもの道くらいはあるのかと思っていた。

ここを私の足で進むのは正直つらい。藪をかき分けようと思ったが思いのほか硬くてなかなか進めない。らいあに藪を踏み固めてもらおうかとも思ったが、迂闊に私たちの足跡を残すのはやめたほうがいいだろう。

結果的に私たちが入れそうな隙間を探しては進み、それをくり返して少しずつ進んだ。

森に入るとさすがに藪はなかった。かえって森の中の方が歩きやすいくらいだ。とはいえ地面が柔らかいため進行速度は遅い。連邦軍から逃げている時も森の中を走ったが森自体が若かったせいかこの森よりは歩き安かったように思える。

歩き続けて、さすがに疲れてきたので大きな木の根元で休むことにした。いい感じに座れるところがある。らいあは荷物を降ろすのも面倒だと考えたのか、荷物だけを載せるように木に寄りかかり、自身は座ることをしなかった。

思ったよりも時間がかかってしまった。かれこれ5時間は歩いている。足裏も痛くなってきた。夕暮れを知らせるように鳥が鳴き始める。森の夜は危険だ。日が少し傾いてきただけでもかなり暗くなり視界が悪くなる。早く目的地に行かねばならない。らいあと私が顔を見合わせたのは偶然ではないようだ。らいあに先を譲る。

「荷物はここに隠しておいて、とりあえず拠点を目指さないか」 「……同じことを考えていました」

苦渋の判断である。少しでもリスクは避けるべきだが、疲労が大きいため身の安全の方を確保するほうが重要だと思われた。彼女の足であれば、目的地まで日没までにはたどり着けるだろう。私の歩調ではその倍以上かかる恐れがある。つまり結論はこうであった。

「らいあ、おんぶしてください」 「まかせろ!」

私たちは荷物から水と食料など最低限のものだけ取り出し、後は布で覆って落ち葉を被せてカモフラージュをした。

らいあに背負われて目的地を目指した。背中から伝わってくる体温は暖かく心地よく感じられた。こんなに近くで人に触れたのはいつ以来だろうか。アルカトラズ時代にあっただろうか。義父は愉快な人だったから肩車くらいはしてくれたのかもしれない。覚えてはいないことが今更ながら惜しい。

それからは早かった。私の歩調に合わせていなければこんなに早く進めるのかと思うくらい早かった。たぶん連邦軍から逃れるために走っている時も、私を連れ去ろうとしたあの時も、私の歩調に合わせてくれていたのだろう。森の中はかなり暗くて足元も不安定ではあったが、それでも30分ほどで目的地に到着した。

「なんとかたどり着けたな」

らいあの言葉に私はうなずいた。

あたりは暗くなってきており見づらいが、その電波塔は円筒形をしたコンクリートの建物だった。その周りはコンクリートの塀でぐるりと囲われている。入り口は封鎖されていた。

周りをよく探すと私たちが潜れるくらいの穴があった。換気のためのダクトだったのかもしれない。かなり埃っぽかったので口に布を当てて埃を吸い込まないようにして進んだ。とはいえ何十年も放置されてきたような感じではない。情報部の少年がここを使っていたのかもしれない。

ダクトの先は換気室に繋がっており、そこから電波塔の内部に入ることができた。内部もコンクリート壁で覆われている。小さな四角い窓から外を見てみたが塔はさらに鉄のフェンスで囲われているようでコンクリートの塀と合わせて二重の防壁となっているようだ。

これは推測に過ぎないが鉄のフェンスがもともとあったもので、コンクリートの塀は情報部の言っていたいざこざの後に作られたものなのではないだろうか。

室内は意外に清潔であり人が十分に住める状態だった。

「とりあえずは休息ですね」 「だなー」

私たちは水を飲んで簡単な食事をとり横になった。毛布などは置いてきたのでここにはない。体温が下がりすぎないように、お互いを抱きしめるようにして泥のように眠った。

2.3.2 矛盾

「足は大丈夫か」

体の痛みで目が覚めた。必要なことではあったとはいえ昨日無理してあれだけ歩いたのがいけなかったのだろう。

「まだ少し痛みます」

患部が少し腫れてしまっている。見た目ほどの痛みはないが不必要に歩き回ることのは避けたかった。らいあが痛み止めを使うかと提案されたが今はまだ使わないことにした。薬類は緊急時にとっておきたい。ちなみに彼女は他に簡易的な医療キットと抗生物質などを所持している。

「じゃあ荷物を取ってくる」 「お願いします」

今のところ私は役に立たないためらいあ一人で行ったほうが安全だろう。らいあは入る時に使ったダクトを通って荷物を取りに行った。

彼女が荷物を取りに行っている間に私は室内の掃除をする。気分の問題もあるが衛生面の心配もある。備品置き場と思われる部屋のロッカーに掃除道具があったため簡単な掃き掃除をした。心もとないが小さな扉を開けてできるだけ風通しを良くし、そこから塵を捨てた。本当は水拭きもしたかったが水は貴重なので見送ることにした。

もしかすると水道が通っている可能性もあるが気づかれてしまう危険性があるためやめておく。もしかすると電波塔の上部に貯水タンクがあるかもしれないので、らいあが帰ってきたら調べよう。

電波塔の内部は外から見たよりもずっと広く感じられた。一部屋あたりの大きさはそれほどでもないが何よりも高さがある。前使っていた湖の拠点と同じぐらいの人が住めるのではないかと思われた。全ての階を掃除するのは大変なのでこれぐらいにしておき、おとなしく彼女の帰りを待つことにした。

「帰ったぞ!」 「それは……芋ですか?」

らいあが荷物のみならず食料を取ってきたのには驚いた。その手にはいくつかの穀類と野草が握られている。どこで見つけてきたのだろうか。なんであれ食料が確保できたことは幸運なことだ。調理方法については煮るのが一番良いのではないかという結論に至った。今のところ調味料などは何もないのが食べられるものがあるだけでありがたい。

茹でた芋を口に運びながら私は尋ねた。

「未来の私とらいあはどういう感じだったのですか?」

そういえば、これまで未来の話題はなんとなく避けてきた。忌避感があったわけではないが、深入りしたいとは思わなかったためである。今はそこまで考えることなく、自然に会話ができるようになった。

「うーん? 所長と助手?」

らいあが言うには、未来の私は白井研究所と言う施設の所長であり、らいあはその助手だったらしい。研究所の他のメンバーについては臨時メンバーが多く、ずっと固定で所属していたのはらいあとのことだ。

所長という表現を聞いてなんとなく高齢の研究者を想像してしまったが、彼女が言うには20代ぐらいだったらしい。以前にらいあが10年後の未来から来たと言っていたことを思い出す。そこで一つの懸念が生まれる。

「矛盾は大丈夫なのですか」

いわゆるタイムパラドックス。言葉にしてみてるとかなり胡散臭い。未来の自分が現代の自分に合うといけないとか、過去を変えると未来がどう変わるかとか、そういう類の話だ。らいあが過去に来たことは世界に矛盾をもたらさないのだろうか。

「矛盾なんて、あってないようなもんだろ」 「なぞかけですか」

確かに世界は矛盾だらけだと納得しそうになり、自分がこの手の話に寛容になりすぎていることに危機感を覚える。

「タイムマシンを作ったのは誰ですか」 「作ったのはみが氏、考えたのは別の人らしい。誰かは知らない」

タイムマシンを考案した人物が気になるが分からないのであればこれ以上追求しようがない。他の質問してみる。

「どうしてらいあだけがタイムトラベルしてきたのですか」 「私が特別だったというよりは、私だけがイレギュラーだったらしい」

言葉遊びのようにも感じるが何が違うのだろうか。私は勝手にらいあだけがタイムマシンに乗る素質が持っていると認識していたがそうではないのだろうか。

例えば彼女はタイムマシンに乗らざるを得ない存在だったと仮定する。世界にとっての危険分子というわけだ。しかしそれでは彼女はいなかったことにはならない。

らいあは未来から来たと言っていた。私はその言葉のままに解釈していた。つまり、らいあは未来人だと思っていた。しかし本当にそうなのだろうか。彼女が現代人だとしたらどうだろう。しかし、らいあはこの時代にくるまではずっと未来で生活していたらしい。そうなると。

「らいあはこの時代に生まれているべき人だったということになりますか?」 「!」

彼女は目を見開き本気で驚いているようだ。

「未来のみが氏も同じこと言ってたな!」 「それを早く言ってください……」

初めからそう説明してほしかった。彼女を半眼で睨んだが、何もかも完璧に覚えていて一から十まで丁寧に説明できる人はそういないだろうと思い直し、このことは水に流すことにした。らいあはそれまで普通に生活していて突然に過去に送られることになったのだ。覚えていろというほうが無理な話だろう。

ともあれ、らいあは現代に生まれるべき存在だったとの仮定と未来の私の見解が一致した。

とはいえそれだけでは多くの謎が残る。なぜらいあが未来に生まれてしまったのか、なぜ解決策がタイムマシンだったのかといった謎は調べようがない。

そして、らいあが混沌とした未来を救うために来たという大前提が揺らいでしまう。なぜなら、未来に生まれてしまったらいあを現代に戻そうとする世界があってタイムマシンが成り立ったわけで、未来の私の目的がどうしても二次的なものになっていしまうからだ。

今のところは世界の意思と未来の私は別個のものと漠然に捉えることにする。この辺りは考えすぎると思考の袋小路に入ってしまいだ。ほどほどにしておくのが無難だろう。

二人で茹でた芋を食べながら何気ない会話を続けた。

2.3.3 疑問

何かがすっきりしない。

らいあとの話の中でどうしても引っかかる点がある。いつも同じ話題の時にぼんやりとした疑念を抱くのだ。それは未来の私に関する話題の時に生じる。

なぜ未来の私はハニカムシティを滅ぼそうと思ったのか。彼女の説明だけでは決定打に欠けるのだ。

らいあの説明によれば、それは超越的人工知能の悪用を防ぐためだという。それを悪用しようとする黒幕がいるそうだ。しかし、黒幕に関する具体的な話がひとつも出てこないのが実に怪しい。その部分だけ、まるで作り話のように感じた。

陰謀論に似ている。

未来の私が何かの理由があって黒幕をでっち上げたかのようだ。受け入れがたい出来事が生じて架空の敵を作らざるを得なくなった、というような感じである。

違和感の理由は他にもある。

未来の私の行動がどうにも腑に落ちない。もし本当に黒幕がいたとして、私は使命感に駆られて行動するだろうか。そこまでの正義感を私は持ち合わせているだろうか。それはないだろう。それこそ正義の執行者や特務情報部に任せていればいいのだ。

つまり、未来の私は何かを隠しているか、あるいは人格さえ変わらざるを得ないほどの決定的な出来事が生じたということだ。

ハニカムシティでの教育に原因があったと考えるのは筋が通っている。しかし、それは違う。なぜなら他の住民は都市の破壊を考えなかったからだ。

私はなぜ都市の破壊に固執したのか。そこで未来の私がらいあを送り出す時の言葉を思い出した。

「未来の私は自分のことを『罪と罰の冠を被っている』と言ったそうですね」 「言ってたような気がする」 「それはどういう意味か分かりますか?」 「うーん、なんでだろうなー」

罪と罰の冠を被っている。

自責の念に苛まれていたということだろう。つまり未来の私には後悔するような出来事があったということだ。それは一体なんだろうか。研究所の活動に悪事が含まれていたのだろうか。しかし、それでは未来の私がらいあに反社会勢力にいわば加担するかのように促すはずがない。

そこで決定的な矛盾に気づく。

「超越的人工知能が実際に悪政を働いたことはありましたか」 「うーん、ないな」

表面的な情報だけで解釈すると、未来の私は憶測だけで行動していたことになる。人工知能を悪だと決めつけて都市を一つ破壊しようとしていたのだ。そんなことを本当に私がするだろうか。ありえない。

私は本当は何をしようとしていたのか。

らいあの未来の話には、あまりにも基本的でかつ重要な情報が欠落している。どうしてそれに今まで気づかなかったのか。私ははやる気持ちを抑えてらいあに尋ねた。声が震えていたかもしれない。

「都市の外がどうなっているか、聞いたことがありますか」 「ない」

背筋がぞわりとした。冷や汗が頬を伝う。あってはならない想像に至ったからだ。

心臓の音が警鐘を鳴らしている。喉がカラカラに乾いていることに気づいた。これが真実だとしたらあまりにも狂っている。それでも真相を究明せずにはいられなかった。

「未来の私は最初から超越的人工知能に執着していたのですか」 「いや。会った時はそんなでもなかった。でも、しばらく経ってからすごく拘るようになった」 「その私の時の様子を覚えていますか」 「ひどく取り乱してた気がする。そういえば部屋に引きこもって何日も出てこなかった」

なぜ話さなかったのだろうか。いや、話せなかったと言ったほうが正しいだろう。それほどの衝撃を未来の私は受けたのだ。

「らいあ氏。おそらく未来の都市の外界は滅んでいます」 「なんだと!」

それは酷い悪夢だ。

未来の私は最悪なタイミングで最悪な真実を知ってしまったのだ。

その時点で真実に一番近かった人物は未来の私だ。事実ではないとしても、そう思い込んでしまっても不思議ではない。そして強烈な後悔が自分を襲った。早く世界の危機に気づいていれば世界は滅びなかったかもしれないと嘆いたことだろう。

超越的人工知能は悪ではない。しかし善でもない。ただ何もしなかったのだ。正確には都市の人々を滅亡から救った英雄とも言える。だがそれは、都市を守るという至極当たり前な使命を全うしたに過ぎず、ただ一つの命令を加えるだけで外界を救えた可能性があるのだ。

その重みが私の心を歪めた。どこまで本気だったのかは分からないが、都市を破壊しようとする企みは全て自演だったのかもしれない。

しかし、それではなぜらいあに都市の破壊を託したのだろうか。都市の存在が将来的な災いとなる証拠を発見したのだろうか。それとも単に私たちに駆り立て、真実を見つけ出すよう後押ししたかったのだろうか。

後者であれば未来の私はとてつもなく不器用であると言わざるを得ない。私たちに罪を負わせまいとする気遣いも結局は無駄になったのだから。

いや、だからこそ私を『みが』と名付けたのか。そして『らいあ』は無自覚に嘘を重ねる。

無実の人間なんかいない。

2.3.4 層

頭をどれだけ動かしたところで今日一日を生きるための糧が手に入るということはない。自分のするべきことはなんだろうか。拠点の把握が必要だ。まだこの電波塔に何があるのかもわからないのだ。可能なら電波塔の周辺の探索もしたい。それらを済ませたら速やかに水と食料の調達をしなければならない。

足の痛みで強く自覚するのは薬の必要性だ。もしこの状況下で病気にでもなったら一大事である。早急に薬の調達の目処を立てる必要があった。やることは難解かつ山積みである。

私は電波塔の天井を見つめてらいあに問いかけた。正確な答えは期待していない。

「この建物は何階建てなのでしょうね」 「5階ぐらい?」

らいあは別行動をしたほうが効率がいいとは思うが私のことを心配してか一緒に電波塔の内部を探索することになった。正直なところ彼女がいてくれると助かる。何気ない会話をしながら各階を見てまわった。

侵入に使ったダクトが繋がっていたのは電波塔の1階にあたる。その部屋は家に例えるとリビングのような場所でダクト室がある以外は変わったものは特になかった。小さな四角形の窓がありそこから若干の光が入り込んでいるが全体的に薄暗い。ダクト室には蛍光灯やコンセントなどの電気系統はすべて取り除かれていた。分電盤だけが残っており、建設途中あるいは解体途中の様相を呈している。

各階を繋げているのが塔の中心の柱を囲むようにぐるりと据えられている螺旋階段である。

電波塔には地下があった。地下1階は壁や床に残っていた痕跡から倉庫として使われていたのだろうと推測する。部屋の隅には箱が無造作に積まれていた。中を見てみるとケーブルの類がぐるぐる巻きにされた状態で入っていた。三つの銅線をビニールで覆うタイプのものだろう。それを使うための専用工具はなかったがらいあが所持している道具で利用できるかもしれない。他には結束バンドやダクトテープ、潤滑油と思われるオイルを見つけた。ボロの布切れが放置されている。蛍光灯や電球もあった。洗剤や掃除のための薬品の類もあったが古すぎて使い物になるかは不明だ。石鹸が残っていたのは運がいい。ありがたくもらっていく。

二階はがらんとしている。壁のわずかな日焼け跡からかつてモニターを設置していたと推測した。保守管理をモニタリングしていたのかもしれない。床を見るとところどころ丸い跡がついていた。テーブルやイスの跡かもしれない。実際に部屋の奥には長机が1つ、パイプ椅子が2つ片付けられていた。

三階に行くと壁にはたくさんついた留め具が目に入った。むき出しの配線がこの部屋が電波塔の主要な役割を果たしていたことを示している。また地下で見つけたようなケーブルの類があった。そして私たちは意外なものを見つける。

私はそれを手に取った。一つの鍵で構成されるその装置の名称を私はよく知っている。

「これは……モールス信号の電鍵ですよね」 「そうだな」

それに繋がっているのが無線機だ。電気が通っていないので動作するかはわからない。アンテナ線は壁から出ている銅線に結線されていた。電波塔のアンテナを使用しているのだろうか。ケーブルは被覆が破れていて見るからに状態が良くない。

修理すれば使えるだろうか。すぐに直せそうにはないが、いずれ何かの役に立つかもしれない。

4階が最上階だった。半分以上が取り外されていて元の様子がわからない。とはいえ、いくつかの制御卓やメーターは残されていたため、この階が制御室として使われていたことが伺える。またこの階には配電盤があった。

さらに壁に備え付けられた梯子を登ると屋上に行けるようだったが、丸い蓋に鍵が掛けられていてそれ以上登ることができなかった。貯水タンクがあることを期待していたのだが、今のところは浄水器でしのげているので良しとしよう。

各階を見て回っていると、らいあが呟いた。

「ハニカムシティを思い出すなー」

彼女が都市のことを話すのは珍しいので、少し踏み込んで訪ねてみる。

「どういう感じだったのですか?」 「都市は層状になってたな。三つの層があった」

それは初耳だ。現在のハニカムシティはひとつの層しか存在しない。

「私は普通に一層二層三層って呼んでたけど、未来のみが氏は上から順に一般層、労働者層、スラム層って呼んでたな」

聞き捨てならない単語が飛び出す。スラム層。階層があっただけでも驚きなのに、未来のハニカムシティは公にはできない事情を抱えていそうである。

「一般層はみが氏がいたところで、労働者層には馬車馬みたいに働く人が集められてた。その二つの掃き溜めみたいなところがスラム層だ。私はスラム育ちなんだ」

この話が本当なら、ハニカムシティにはあからさまなカースト制度が存在していたことになる。これは間違いなく未来の私が都市に不信感を抱くようになったきっかけの一つだろう。

彼女の説明によれば、都市の層に関する情報は徹底的に秘匿されて、それを知っていたのは未来の私たちと特務情報部くらいだったらしい。

ちなみに、らいあのサバイバル術の多くはスラム層で学んだとのことだ。ハニカムシティは物資が圧倒的に限られている。そのため人から物を奪ったり奪われたりするのは日常茶飯事でらいあはそれを潜り抜けて生きていたらしい。らいあ曰く、自然界のサバイバルよりも都市のサバイバルの方が危険で大変とのことだ。

その後、都市の層の存在を知った未来の私がスラム層を調査し、らいあを保護するに至ったという流れらしい。辛い過去を話させてしまったようで心苦しく感じたが、当の本人はあっけらかんとしていた。

2.3.5 初めての狩り

電波塔の探索が終わったら途端に手持無沙汰になる。

らいあは食料を調達しに行くとのことだ。どうやって獲得するのか興味があったので付いていくことにする。今の私では足手まといにしかならないだろうが見学することくらいは問題ないだろう。

排気用のダクトから外に出るとそこは鬱蒼とした森だった。昨日は暗くてよくわからなかったが、こうして日中に見てみるといかに自然に囲まれた場所であるかが確認できる。耳を澄ますと川のせせらぎや鳥のさえずりが聞こえ、足元の草からはガサゴソとした音が聞こえた。よく見ると鳥の親子がはぐれないように歩いている。

電波塔に立ち入るための道路と思わしき痕跡があったが、すでに轍すら見えなくなるくらいに草木で覆われていた。道は倒木で塞がれており人がいた痕跡はすでに消えている。代わりに草食動物と思われる足跡が見つかった。

らいあは狩りのための道具をこしらえていた。弓矢である。彼女が言うには逃亡生活をしている間に何度か試作いたようだ。一つの材料で作られた単弓であり、まだ理想にはほど遠いらしい。

彼女の説明によると獣を槍で捕まえることは不可能ではないが、動物の皮は思いのほか硬い、すぐに危機を察知して逃げてしまう、暴れると怪我をする恐れがあるといった理由で弓矢を選んだそうだ。罠を使ったほうが安全に捕まえられるとも言っていたが、成功率はすこぶる悪いらしい。

らいあが鹿の痕跡を発見した。けものみちを見ればある程度の移動範囲を推測することができる。ちなみに熊の痕跡もあるとのことだ。らいあはあっけらかんとしているが私は戦々恐々としている。

ふと立ち止まり辺りを見回した。動物の足音を察知したらしい。全然気づかなかった。私の足では足手まといになるだろうから、らいあに先に行ってもらう。

10分くらい経過しただろうか。彼女は手ぶらで帰ってきた。逃げられてしまったらしい。ハンティングはそう簡単にはいかないようだ。

狩りは一旦あきらめ釣りに行ってみることにした。

川は歩いて3分ほどの場所にあった。私が川といわれて想像するのとはだいぶ違う、幅2メートいるほどの小川だった。水が透き通っていたためすぐに魚を見つけることができた。しかし、どうやって釣るのだろう。

らいあは追い込み漁を試してみると言った。溝を作ったり石で水の流れを変えたりして水流の行き止まりを作る。そして少しずつ狙いの魚をそこに追い込むという作戦らしい。この作業は私も多少手伝うことができた。何度も逃げられてしまったが、ついに魚を捕まえることが出来た時は思わず二人で歓声を上げた。過酷なサバイバル生活の中で何であれ喜びが得られるのはありがたい。希望があるのは良いことだ。

こうして私たちは5匹の魚を捕まえることができた。全長10センチほどだろうか。なかなか大きい。また飲み水を獲得するために川の水を汲んで浄水器で濾過した。500ミリリットルの容器4つ、合計で2Lの飲み水を確保することができた。

拠点に帰る途中に食べられそうな木の実やベリーを見つけることができた。期限付きのサバイバルであれば、無理に狩りはせずこうしたもので生き延びる方がいいらしい。狩りは体力を奪われるし、危険も伴うからだ。

拠点に戻った私とらいあは焼き魚を食べながら話す。

「一人じゃこうはいかないよな」 「そうなんですか」

意外だった。私は足手まといで彼女一人の方が楽に活動できると思っていたが、実際はそうでもないらしい。一人でサバイバルしようとすると生活に必要最低限のものを得ることに時間が奪われ、他の活動ができなくなってしまうらしい。

湖の拠点の時、私は情報収集をする時間があったが、らいあにはそうする時間やエネルギーがなかったとのことだ。なるほど言われてみれば納得である。私はらいあがいとも容易く食料を確保しているように思っていたが、今日の狩りを見る限りそうではないことが分かった。失敗することもあるし、成功するとしてもかなりの時間と体力が奪われる。その他に活動をするのは困難だろう。

そのあとも話を続けて、二人の大まかな役割分担が決まった。食べ物などの生活に必要なものを確保してくるのはらいあの役割で、情報を集めたり活動を推し進めたりするのは私の役割という感じである。私は食料調達でほとんど役に立てない以上、これからも積極的に動くべきだろう。

私は今後の活動について思案する。

私たちはこれからどうするべきだろうか。引き続き情報を集めるべきだろうが、他に何かできることはないか。例えば、何か植物を栽培したらもう少し生活が楽になるのではないだろうか。あるいは拠点をもう少し充実させるとかだ。

(いや、違う)

即座に首を振る。生活を安定させる考えでは物事を動かせるまで何年かかるかわからない。先のことを心配しても意味がない。今できることは何だろうか。私は足を痛めたままだ。そこであることに気づく。

「らいあ氏、明日街に行きましょう」 「足は大丈夫なのか?」 「怪我しているからこそです」 「どういうことだ?」

私は説明をする。

それは私たちの体力や気力の問題だ。サバイバル生活をして心身が向上していくと考えるのは楽観的すぎる。生活はガラリと変わった。バランスの取れた食事を摂ることすら難しくなっている。徐々に体力や気力が奪われていくだろう。そうなると大きなアクションを起こすことが難しくなる。楽な選択をすればどんどん楽な方に転がっていくことだろう。多少無理をしてでも今行動することが必要なのだ。

本当はもう一つ理由があるが明日分かることなので説明を省いた。

「了解だ」

食事を終えてからはまた別行動となる。らいあは引き続き食材の調達だ。私は綺麗な花などがあったら取ってくるように頼んだ。

私も作戦をまとめるこちちに集中する。これまでの出来事をできるだけ思い出して記録する。そして記憶を頼りに大まかな地図を作成する。ゆくゆくは正確な地図を手に入れたいものだ。私は即興で器用なことができる人間ではないため、事前にできるだけ詳細な計画を立てる必要がある。この作業は就寝時間まで続いた。

ちなみにらいあが日が沈むころに鹿を仕留めて帰ってきた。どうやって捕まえたのか尋ねたら、結局のところ根気比べらしい。人間と動物を比べたとき、人間が唯一勝っている身体能力は持久力だという。

粘りに粘り抜いて打ち勝つ、実に人間らしいやり方だ。

2.4

2.4.1 街の偵察

早朝。体の痛みで目が覚める。すぐに体を起こす気にならず、しばらくぼーっとしていると小鳥のさえずりが聞こえてくることに気づいた。湖の拠点で聞こえてきたものとは違う印象だが、それが何の鳥なのか私は知らない。

足は腫れていて見るからに痛々しいが、実のところ痛みはそれほどでもない。見た目は重要なのでこのままにしておく。

らいあはすでに起床していて外出の準備をしている。寝起きがいいのはうらやましい。私はのそりと起き上がり、街に出かける用意を始めた。 二人で軽く食事をとり拠点を出る。

移動方法は森の中はらいあにおぶってもらい、村が近づいてきたらゆっくりと歩く。この方法だと移動に時間がかかるため、ゆくゆくは便利な移動手段を手に入れたいものだ。

村の近くまでくると農作業をしている人たちをちらほら見かける。私たちはすれ違う人たちに片っ端から挨拶をしていった。たいていは挨拶だけで終わるが、話を続けられそうな雰囲気なら道を尋ねる。こうして地道に情報を集めていくのだ。

この辺りは田舎でのんびりと生活しているためか、挨拶を返してくれる人が多い気がする。質問の内容は役所や病院、図書館や駅などの場所である。どうでもいい話に巻き込まれそうな時のために話を切り上げる文句も用意しておく。待たせている人がいるなどと言うわけだ。

今後も役立つ情報をくれそうな人には道中で見つけた花を渡す。狡い好感度稼ぎだ。こういうあざとい役割はできればやりたくないが生き抜くためなので仕方ない。

情報を集めるという点で足を痛めていることは有利に働いた。話かけた人の多くは私の足を心配して、さらに会話を続けることができたからだ。足を痛めてしまって困っているなどと言えば相手は自分の通っている診療所などを勝手に教えてくれる。おかげでこの街一番の医者や評判の悪い医者などの情報を入手することができた。

ふとアルカトラズ時代に小さな子供という立場を利用して情報を集める任務を思い出した。幼い子供は警戒心を持たれにくい。とはいえ、それが通用するのは一般人までだ。連中は警戒心が強く、子供の私には手に負えない相手であった。

村での会話が一通り済んだところで、街のほうに向かった。街では村のときのようには挨拶が返ってこないが、積極的に道を尋ねると教えてくれることが多かったので、こちらの方法に切り替える。数時間この作業を続けて街の主要な機関の情報が揃った。

名無しという立場上、役所や病院などは使うことはないが知っていて損はないだろう。図書館の場所を聞けたのは大きかった。大抵の図書館はその地域に関する郷土資料を置いている。私たちに必要なものは地図だ。

早速、私たちは図書館に向かった。レンガ造りの大きな建物で、その一角が図書館になっていた。中に入ると壁一面が本で埋め尽くされている。地図は探すの難しいことではなかった。職員に持ってきてもらったからである。しかし複写機がなかったので、それを写し取るのに時間がかかってしまった。

外に出るころには、すでに夕刻となっていた。早く帰らなければならない。気持ちが急かされてしまい、近道をしようとして路地に迷い込んでしまった。道は狭く水気があり、なんとなくカビ臭い。治安も悪そうだ。速やかにこの場所から離れるべきだろう。

路地をさらに進むと、その奥に人影が見えた。3人で1人で取り囲んでいる様子だ。柄の悪そうな連中が気の弱そうな少年を見下ろしている。それを見て予想がついてしまう。案の定、少年は金品を渡すよう強要されていた。

こういうのには関わらないに限る。

そう思って退こうした。そこで、らいあがいないことに気づく。まさかと思い少年たちの方に振り返る。

「何やってんだこらぁ!!」

らいあが連中めがけて突っ込んでいた。私はため息をつく。『なにやってんだ』はこっちのセリフだ。

2.4.2 路地裏

「ちっ、脅かすんじゃねぇよ」

突然の乱入者に連中は驚いたようだが、相手が女子二人と知るや応戦の構えをした。

「相手はガキ二人だ、やっちまえ」

らいあのことは心配していない。規格外の化け物ばかり相手にしてきたので忘れかけていたが、らいあは普通に強い。不良少年程度には負けないだろう。

一方でカツアゲされていた気の弱そうな少年がいたが狼狽えていたので、さっさと逃げろと身振り手振りで伝えた。少年は申し訳なさそうに頭を下げながら立ち去っていく。

さて。

私はこの争いをどう収拾をつけるか思案する。こんなところで無駄な騒ぎを起こしたくない。

「わたしはてめーらみたいな屑野郎がいちばん嫌いだ!」 「舐めてんじゃねぇぞ、クソガキが!」

あれこれと考えているうちに乱闘が始まろうとしていた。らいあも大概口が悪いので、どっちが悪者だかわからなくなってくる。

「!?」

らいあが相手に掴み掛かろうとした瞬間、強烈な悪寒がして咄嗟に地面に伏した。横目でみるとらいあも同じように一歩引いて伏している。

その直後、突風と共に瓦礫が飛んできた。逃げ遅れたチンピラたちは倒れており、路地の石壁には子供が潜れるぐらいの風穴が空いていた。らいあの仕業でもチンピラの仕業でもない。

ザッと砕けた石を踏む足音がして、見上げると金属バットを手に持った、クールな印象の女が立っていた。彼女は完全に伸びている男たちを見下ろしながら凄む。

「うちの島でなに暴れてくれてんだ、あぁ?」

彼女の背中にはパーカーのフードで半分隠れていたが、獣の尻尾を表したエンブレムが見え隠れしていた。

(……ビーストテイル)

こんな街中で会うとは完全に予想外だ。私は軽く混乱する。それはらいあも同様だったようで彼女を指差して叫んだ。

「お前はビーストテイルの女大将!!」 「誰が女大将じゃい!? あたしは分隊長だ!!」 「「あ・・・」」

私は思わず額を覆う。二人とも完全に墓穴を掘っていた。

らいあはビーストテイルを知っているということを伝えてしまったし、彼女はそれを認めた上でさらに分隊長であることまで伝えてしまった。言うなれば、バカ二人である。

分隊長。

ビーストテイルに分隊が存在することは噂で聞いていた。幻獣九尾にあやかって9つの分隊を作ったのだという。

それはそうと、気まずい表情で顔を見合わせている二人をどうにかしなければならない。私は二人の間に入って、分隊長を名乗る女に頭を下げた。

「連れが失礼しました」 「あ、ああ。こちらこそ悪かったな」

彼女は毒気が抜かれたように私を見つめた。好戦的ならいあに比べると私は場違いに見えるのだろう。

「それから助けてくれてありがとうございました」 「気にするな。怪我がなかったならそれで……」

女はそこまで言って、ふと私の足に目を留めた。それから慌てたように詰め寄ってくる。

「お前その足! 連中にやられたのか!」

掴みかからんばかりに近づくので、危機を感じたらいあが反撃しないようにアイコンタクトをした。肩を掴まれて問われる。今までにない距離感に私は困惑した。

「大丈夫です。これは転んでできた怪我なので」 「す、すまん。勘違いしてしまったようだ」

それを聞くと女は安堵したように肩から手を離した。それから急に私から少し離れて、顔を赤くする。相手の意図がわからず彼女をじっと見つめると、さら顔を赤くしてもじもじしだした。

スタイリッシュな容姿と服装、堂々とした態度は同性から好かれそうな印象を受ける。その実態はビーストテイル分隊長だ。しかし、私が相対すると女の子っぽい反応をする。粗暴な少年たちに全く怯まなかったところを見ると人見知りの類ではない。これは一体どういうことなのだろうか。

(……私たちと仲良くなりたいのだろうか)

ありもしない想像をしてしまい首を振ったが、どうにもこれが彼女に当てはまるような気がしてならない。とはいえ、そうなるための糸口が見つかりそうになかった。親しくしようにも初対面であり当然ながら共通の土台がない。名前すら知らないとそこまで考え、そこで重要な点を思い出した。

らいあが以前に言っていたことを思い出す。目の前にいるこの女は名無しだ。であればこの邂逅を無駄にするのはあまりにも惜しい。

私は一か八かの大博打を打つことにした。

「私たちは訳あって『名無し』を探しています」 「なんだと!?」

彼女は驚愕したように反射的にバットを構えた。さすがに警戒されてしまったようだ。この反応で彼女が名無しであることは確定した。

目の前の女はバットを構えながらも、その瞳には困惑が浮かんでいる。私がなぜその言葉を放ったのか、私たちは何者なのか、目の前の少女たちは敵なのか味方なのか。さまざまな疑問が渦巻いていることだろう。らいあも成り行きをじっと見守っている。次の一言に対する反応で私たちの未来は変わるだろう。まさに賭けだ。

「私たちも名無しです」 「!? それは本当か!?」 「名前も戸籍も、ありません。正真正銘の名無しです」

私はそう言って自分の足元に視線を落とす。彼女もそれに釣られて視線が誘導される。私の行動には特に意味はない。しかし彼女にとってはそうとは限らない。私たちが何者で、何を抱え、何をしようとしているのかを解釈しようとする。

そして彼女はそれを得たようだ。

私に視線を戻す頃には、彼女はさっきのように赤面するようなことはなく、真っ直ぐに私を見据えた。彼女はしばらく逡巡していたが、意を決したように切り出した。

「……お前たちの事情はよくわかった」

それが事実とは限らない。しかし、それは些細なことだ。重要なことはその先にある。彼女が私たちを仲間とみなすか、敵とみなすか。それだけである。

「……よかったらビーストテイルに入らないか?」 「は?」 「えっ?」

それは大胆すぎる。らいあも目を丸くして驚いていた。彼女は言葉を間違ったのかと、また顔を赤くして口をパクパクさせていた。いや、それでも、あるいは。

「……いえ、びっくりしただけです。少し考えさせてください」 「よ、よかったら、よかったらでいいから、な」

女は少し泣きそうになっていた。可哀想だが、ちょっと待て。敵の勢力に入ることは考えもしてこなかった。それも最強とも言われるビーストテイルに。これは即断しかねる提案だ。一旦アジトに帰って、らいあとじっくり話し合う必要があるだろう。

ちなみに、私たちが帰ることを知るとますます彼女が泣きそうになっていたが、もう一度会うことを取り決めると、すっかり元気になったので良しとしよう。

2.4.3 モールス信号

「到着だぞ!」 「おつかれさまです」

らいあのおかげで夜が来る前に拠点に戻ることができた。ごたごたに巻き込まれて日も傾いてきていたので私を負ぶって急いでくれたのだ。

あたりはだいぶ暗くなっているが、今は明かりを取れる道具も少ない。朝に通行人にもらった柑橘系の芯をろうそく代わりにして小さな灯りとする。

昨日らいあが仕留めた鹿の残りを食べながら、自然と話題はビーストテイルのことになる。以前に洞窟でビーストテイルの隊員に襲われていることもあるので当然ながら警戒すべきだろう。とはいえ、分隊長に接触できる、まして勧誘される機会は貴重だ。せっかくリスクを冒してまで名無しであることを突き止めたのに、それをふいにするのはあまりにもったいない。

「コーラがない……」 「水で我慢しましょう」

余談になるがコーラの備蓄が尽きたようでらいあは不満げだ。ブレンダリアで育った私にとってはコーラの価値は水より低かったのであまり良い印象はない。しかし彼女にとっては違うらしく、貧しい生活の中でカロリーが高くて腹も膨れるコーラは生きることに重宝していたらしい。

さて、私のするべきことはビーストテイルに関することに限らない。その他の情報の整理もしなければならないし、モールス電鍵と無線機の修理もしてみたい。

図書館で得ることができた情報のなかで重要そうなものは、近年のベル国とブレンダリアの動きについてだ。ブレンダリアは次々と周辺諸国を制圧して国土をどんどん広げている。ベル国は合併国に挟まれながらも白旗をあげるのを断固拒否している国だ。別にベル国の戦力が高いわけでもなく人口の数が多いわけでもない。どのようにして存続しているのだろうか。ふいに、あのふてぶてしい外交官を思い出した。あの男が暗躍している可能性は否めない。

名無しに関する話や反社会勢力、ブレンダリアの内部事情に関する情報はほとんどなかった。巧妙に隠蔽されている。これは調査手段を見直した方がいいかもしれない。

無線機についてであるが、中を開けた感じでは目立った破損はなく、比較的きれいな状態だった。ハンダが経年劣化で外れている箇所がいくつかあったので鉱石ラジオの時と同じ要領で配線し直す。導線が剥き出しの箇所も多く心許ないが絶縁テープなどは持っていないのでそのままにしておいた。モールス電鍵も同じように修理する。もし部品が死んでいたら諦めるしかないだろう。

電力に関する問題が頭をもたげる。この規模の装置になるとじゃがいも電池ではどうにもならない。半ば思いつきで三階の配電盤につないで受信を試みることにした。

「そんな簡単に動作するわけ……ん?」

あっさりと装置が起動した。さすがに作為的なものを感じる。まるで私たちの行動を見越していたようだ。情報部の仕業かもしれない。

私は慣れない手つきで受信を試みた。電鍵で応答を求める信号を送る。いわゆるCQCQだ。意外なことに様々な国の信号を受信した。大抵は当たり障りのない挨拶で終わる。皆ルールに則っているらしい。こちらも踏み込むのは難しく、有用な情報は得られずにいた。

そんな中、明らかに異色の通信を受信した。一般的なスピードの20倍くらいの速さで信号が送られてくる。あまりに早すぎて読解ができない。

私はらいあと協力して読解に取り組むことにした。一部分だけ聞き取り、文章に起こす。すると穴埋め問題のような文章が出来上がる。これだと解読が難しいので、らいあとタイミングをずらして聞き取りをする。机の上に小石を駒のようにしておいて、自分が聞き取り終わったら相手に託す。

そうしてようやく聞き取った通信は次のような文字列になった。もちろん途中に聞き取り損ねた信号があるかもしれない。知らない符号には『?』を充てた。繰り返すがこの文字列の正確さには全くもって自信がない。

『ISIISISSIISIIIIHISIH5HISSIHSIIIHIIHIIIHIIIHIIIISSISISHIHSSIIISII?IS5IIIISHISIHIIIIISHIIHIISSIHISIIHIS5?IIISSIIIIIIIII?ISSIIIIIIIIISIIISSIIHIIIISSIIISIIIHIIISSIHIIIII?IESIIIIIISH?IHIIHIIIHII?HISIHISHISIHISIIHI』

「意味不明ですね」

この文字列に何か意味があるのだろうか。らいあも首を捻っていた。特に意味のない信号を送っている可能性も否めない。とはいえすでに暗号解読に夢中になっていた私たちは、互いに気づいたことを挙げていくことにした。

「出現しているのはEHIS5の五文字ですね」 「訂正の信号もあったような気がする」 「聞き逃しはどれぐらいあると思いますか」 「早すぎて判断が微妙だなー。間隔がちぐはぐでわかりずらかった」 「それは私も思いました」

この信号を聞き取りづらくした理由の一つが信号の間隔が不規則だったことだ。意図しないミスでなければ、空白には複数の意味があるのかもしれない。

「この5つの文字にどんな意味があると思いますか」 「パッと思いついたのが国際宇宙センター」 「ISSですね。確かにIとSの頻出が多い気がしますね」 「あとはDNA」 「確かに少ない数で構成されているのは似てますね。こちらは5つですが」

文字列の種類が少ないのは気になる。少なくとも、それぞれをアルファベットに当てはめるようなタイプの暗号ではないようだ。そこでらいあが何かを発見したように首をかしげた。

「んんー? これ短点しか使ってないんじゃないか?」 「短点ですか」

国際モールス符号では文字間隔は短点3つ分、語間隔は短点7つ分あけることになっている。しかし、この通信には短点2つ分くらいの間しかない。早すぎるから聞き取りにくいだけだと思っていたが、もしかするとこの通信は国際モールス符号に則っていない可能性がある。

らいあは頭を戻しながら発言する。

「これ、2進数なんじゃないか?」 「まさか……いや、文字間隔がちぐはぐなのは気になっていました」

例えば、短点が1で短点1つ分の間隔が0を表すとしたらどうだろうか。

「とはいえ確認する術がありません」 「方法ならあるだろ?」

そう言ってらいあはモールス電鍵を指差した。

「その手がありましたか」

つまり、こちらからモールス信号を送ればいいのだ。試してみる価値はある。

「なんと打ちましょうか」 「こんにちは、とかでいいんじゃないか」 「通信局の確認とかは必要でしょうか」 「相手もルールを無視してるし、別にいいんじゃないか」 「ではhello i am migaでいきましょう」

私たちは早速。英字と二進数変換の早見表を作って文章を組み立てた。相手に送る信号は次のようなものとなった。

『110100011001011101100110110011011111000001101001100000110000111011011000001101101110100111001111100001』

1で電鍵を押し、0は休止する。空白のリズムをとるのが難しかった。らいあに等間隔でリズムを刻んでもらいながら電鍵を打つ練習をする。何度か練習をしたのち、通信を開始した。

ゆっくりと正確に。同じ文章を二回繰り返した。 「来た!」

私のスピードに合わせて、ゆっくりとメッセージが返ってくる。私がしたのと同じように二回の信号が送られてきた。すぐにらいあに確認する。

「聞き取りましたか?」 「おう」

相手から送られてきた信号は次のようなものだ。

『11010001100101110110011011001101111100000110100110000011000011101101100000110011111000011110101111001011010011101110』

「前半はこっちと同じ内容だな」 「ならhelloですね。続きは……」

変換した文章を読む。

『hello i am gaurin』

「がうりん?」 「で、あってると思う」 「二進数で正解でしたね」 「だな」

もう少し通信できそうだったので、その後も会話を続けた。そうしているうちに二進数通信にもなれてくる。

がうりんは友達が欲しいと言っていた。ふとビーストテイルの分隊長のことを思い出す。モールス信号は趣味でやっているらしい。私はこの通信に夢中になってしまったようだ。らいあに次の信号の変換を急かした。

「今回は、なんと言っていますか」 「急ぐなって。ええと」

らいあはがうりんの通信を読み上げる。

『私は組織の一員。ジッパーアント』

とんでもない情報が飛び出てきた。私は驚愕したが、それよりもらいあの様子がおかしい。これまで見たことのないくらい動揺していた。

メッセージを送るのに手間取っているうちに、次のメッセージが届く。

『11101001101000110000111011101101011111001110000011100111100101110010110000011110011101111111010110000011011001100001111010011001011110010』

「わかりますか?」 「……」

らいあは心ここにあらずという感じだったので、急いで解読した。

『thanks see you later』

私は急いで『thx』と返す。ありがとうを省略したものだ。がうりんとの通信が終わる。

らいあは静かになって何も答えない。嫌な予感がする。人に言えない重荷を抱えていたら困る。なんとしてでも聞き出したいところだが、彼女は頑なに口を絶対に割らなかった。

早々に解決すべきだ。長引かせると碌なことがない。手っ取り早くジッパーアントと接触する一番の近道は、分隊長の誘いに乗ってビーストテイルに入ることだ。

らいあや分隊長は怒るかもしれないと思いつつ、ビーストテイルを足掛かりにしてジッパーアントと接触する計画を私は練り始めた。

2.4.4 バックドア

その日の夜。

微かな足音で目を覚ました私たちは警戒しつつ息を潜めた。電波塔の窓の一つが軽く叩かれる。らいあが慎重に外を確認しに行くと、そこにいたのは情報部の少年だった。わざわざここに訪れるあたり、何か重大なことがあったことが伺えた。他に潜んでいる人はいなさそうだったので、私たちは静かに外に出る。少年は神妙な面持ちをしていた。私は先んじて挨拶をする。

「先日はどうも」 「こちらこそ」

少年はあまり間をあけずに言葉を続ける。

「預かっていた装置の解析が終わったから伝えにきた。正直伝えるかどうかは迷ったけど、内容が内容だったから君たちは知っておくべきだと思ったんだ」

何とも重々しい出だしである。彼は勿体ぶるような言い回しはせず、単刀直入に述べた。

「結論から言うと、超越的人工知能に関する機密情報が入っていた」

それから簡潔にその内容を告げる。

『諸君。私は超越的人工知能を造った者である。この強大な力を持って人類を守る要塞とするか、人類を滅ぼす災厄とするかは君たちに委ねられた。すなわち、超越的人工知能に対する権限である』

そして超越的人工知能に関する技術的な文章が続いていた。バックドアと呼ばれるハッキング経路に関する情報である。私とらいあは驚いて顔を見合わせた。少年の声がどこか遠く聞こえる。

「正直、この情報は僕たちの手に余る。この情報だけで世界の勢力図が一気に動きかねない。僕たちも明日には動き出すつもりだ。君たちも、何かを抱えているのなら、早めに決断した方がいいかもしれない」

少年はそう言って去っていった。

私は考える。装置がシースネークのアジトで見つかったことから考えると、シースネークはすでにこの情報を知っていると考えるのが妥当だろう。そしてシースネークが持っているということは、他の勢力も情報を得ていると考えるのは理にかなっている。なぜなら、この超越的人工知能の制作者がシースネークだけを贔屓する理由がないからだ。

ここである仮説を思いつく。未来の私がらいあに託した使命についての仮説だ。未来の私は名無しを探すように指示したが、それはシースネークを含む反社会勢力を調査することに繋がっている。そしてここにきて、それらの勢力がバックドアという強力な武器を持っていることが判明した。未来の私はこのバックドアに関わる何かを私たちに託したいと考えたのではないだろうか。

そして図らずも未来の私が超越的人工知能に執着していたという話がデタラメでないことが証明されてしまった。こうして第三者の手にその権限が渡ったということは、十分に悪用も可能であるということである。これが発端となって人類に猛威がふるわれるというのはあり得ないことではないのだ。

これまでの推測を頭の中で整理してみる。

未来のハニカムシティは超越的人工知能によって管理されている。私は都市を破壊しようとして失敗、らいあが過去に送られることになった。都市以外はおそらく滅亡している。未来の私はらいあに名無しを探すように命じた。名無しは高い確率で反社会勢力に属している。それらの勢力の少なくとも一つは超越的人工知能のバックドアを有していることが判明した。

未来の私の行動と名無しを探すということに、まだはっきりとした接点はない。ただ名無しを探すことと超越的人工知能が全く無縁ではないことは分かった。

問題は私たちがこれからどうするかだ。明日には世界がひっくり返っているかもしれない時代に私たちは何をすべきなのだろうか。

いや、結論は既に出ていた。モールス信号を打った時には既に決意さえできている。湖の拠点で鉱石ラジオを造ってから軍に捕捉されるまでの一連の出来事を忘れたわけではないのだ。朝を待たずに情報部がやってきたのも警告の意図が含まれていたのだろう。

私たちは一刻も早くこの拠点から離れるべきなのだ。行く場所などひとつしかない。

「ビーストテイルに入りますよ、らいあ」 「おう! みが氏に付いていくぜ!」

2.4.5 エピローグ(新シリーズに続く)

「やってくれましたね……らいあ」

らいあを過去に送ってから、すぐに私という存在が未来から消えていないことに気づいた。歴史が変わったような痕跡もない。まんまと騙されたのだ。

「またこの地獄で生きていくことを考えると、実に憂鬱です」

過去の私が推測した通り、都市の外は滅んでいる。ただし、その見通しは甘すぎだ。私は巨大な影が闊歩する地上を思い出し、大きく首を振った。

私が名無しを『時空の迷い子』と呼んだことをもう少し突き詰めてくれたら正解に近づけたのかもしれないが、ヒントが少なすぎたことについては弁解できない。お互い時間が足りなかったのだ。

それにしても私を狂人扱いするとは発想が幼いというかなんと言うか。仮にも同じ私なのだから、もう少し信用して欲しかった。確かに黒幕というワードが胡散くさかった感じは否めないが。過去の私たちが黒幕の正体であるブラックバードの総統、黒野匠に行き着くまではもう少し時間がかかりそうだ。

「それにしてもビーストテイルですか、懐かしいですね」

ビーストテイル。大陸最強の傭兵団とも言われた組織について思いを馳せる。残念ながらこの場にいる私は彼らとそれほど親しくはない。しかし、絶望に抗った最強の勢力としての記憶は強く焼き付いている。

家族でも友達でも、いや、味方ですらないのに私を庇って散っていった女大将のことを忘れた日はない。彼女は最後のときまで気高く生きた。

「……じゅん、あなたの生き様は今でも覚えています」

そう、この無情な世界では、足踏みしていては誰も救われないのだ。大陸最強でさえ敗れた絶望に立ち向かわなければならない。ビーストテイルでの生活は過酷を極めるだろう。

それでも、どうしても名無したちに集結してもらう必要がある。そうしなければ戦いにすらならないのだ。

さて、過去の者たちを憂うのはここまでだ。私の時はまだ止まっていない。すなわち、私にはまだやることがあるということだ。

終わりゆく世界で私はひとり足掻き続ける。

「……ほんとに、恨みますよ、らいあ」