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黒の思惑

薄暗い通路に二つの足音が響く。一つは大柄な男のもので、もう一つは少年のものだ。少年は両手を手錠をかけられ鎖で繋がれており、その鎖は大柄な看守によって握られていた。

(極悪人だと上に脅されてたが、ただのガキじゃねえか)

看守は内心で上司に毒づいた。上が言うには、この少年は空前絶後のテロリズムを扇動したとかで厳重警戒せよとのことだった。見てくれは体躯の細い普通の少年だ。何の抵抗もせず連行され、所持品を没収され、囚人服を着せられている。

こいつは本当に犯罪者なのかとさえ疑うが、こんなところに連れて来られるぐらいだ。それ相応の悪事は働いたのだろう。

この監獄に連れてこられるのは相当な罪状のあるやつしかいない。その中で、最も警備の厳重なエリアに収容せよとのお達しだ。看守は少年に興味が湧いた。

「おい。黒野匠と言ったか。お前、一体何をやった? 大統領の首を狙ったか?」

気性の荒い囚人と接しているせいで脅すような声色になったが、少年は眉ひとつ動かずに進もうとする。まるで自分から牢屋に入ろうとしているかのようだ。無知か、無謀か。こいつはこの監獄の恐ろしさを知らない。

「おい、わかってるのか? この監獄は一度入ったら二度と出られないことで有名だ。見てみろ」

看守は牢屋の一つを顎で示す。二重の鋼鉄の格子で塞がれた入り口、壁も床も天井もコンクリートで作られ、ほんの少しの太陽光を招き入れる小窓が高所に一箇所あるだけである。

「お前がここに入れば、もう二度と出ることはない。だが、この瞬間でお前を解放できる唯一の人間は俺だろうな」

揺さぶりをかけてみるが、黒野は自ら牢屋の扉に手をかけ、その中に入った。それからボロボロのベッドに腰掛ける。だが、その振る舞いは威厳に満ちた王のようだった。彼は艦首に対して初めて口を開く。

「貴様に未来の出来事を教えてやろう。光栄に思うがいい」

深淵から轟くような声。看守は一瞬で雰囲気に飲まれかけた自分に気づいた。

「僕は二日後、誰の邪魔もされずにここから出ていく。貴様は後悔するが、そのときにはもう彼はいない」

看守はその言葉の意味を聞こうとしたが、黒野はそれ以上喋ることはなかった。

翌日。看守は黒野の言葉が気がかりだった。彼の言葉が本当なら、明日には出ていくことになる。

(あり得ない。この監獄に何人の見張りがいると思っているんだ。ガキの戯言だ)

看守はやりたくてこの仕事をしているわけではないが、それでも自分の仕事にはプライドを持っている。脱獄なんてさせたことは今までなく、これからもさせるつもりは毛頭ない。

(昨日の言葉を間に受けているようで癪だが、可能性の芽は潰させてもらう)

囚人が牢から出るのは1日に2回。朝の行進と夜のシャワーのときだけだ。

(その時間は常に俺が見張る。いつもは部下と交代することもあるが構わねえ。鍵を隠し持つことがないように、ボディチェックも徹底的にする。脱獄なんて万に一つもできやしねえ)

看守はネズミ一匹逃さぬ様子で警備をかため、黒野を監視した。今のところ怪しい動きはない。彼は瞑想をするように目を瞑り静かにしていた。

静寂を打ち破ったのは、黒野の方だ。

「さて、アーノルド・ウィンブル卿」

「……なぜ私の名前を知っている」

動揺は隠したつもりだ。しかし黒野はそれには反応せず、判決を告げる冷酷な裁判官のように言葉を続ける。

「貴様には4歳になる娘がいる。南サントリア病院で入院中の子だ」

「おまえっ!? なぜそれを!? まさか!?」

看守が繕っていた平静は意図も容易く崩れる。命より大切な娘。目に入れても痛くない最愛の子。なぜその子が出てくる。嫌な予感に冷や汗が伝う。

「彼女の治療法は見つかっていない。そうだな?」

「……」

娘は人質に取られたのか。いつ、どうやって。なぜ知り得た。事前に調べていたのか。しかし、担当の看守は当日まで誰にも知らされていなかった。看守本人でさえ知らなかったのだ。

(獄中で調べたのか。まさか。そんなことが人間にできるはずがない!)

「僕なら貴様の娘を救うことができる。どうだ、取引をしないか。僕をこの牢から出すだけの簡単な仕事だ」

「……ふ、ふざけるな。そんな口車に乗せられるとでも……!」

「じっくり考えるといい。まだ1日の猶予があるのだから」

そういうことか、と看守は頭を抱える。どうやったか知らないが、黒野は自分の弱みを知っていた。それを交渉材料にしてここから脱獄するつもりなのだ。

彼は二日でここを出ると言った。看守がすぐに折れると踏んだのだろう。実際に否定し難いほどに心が揺れ動いている。もし、本当に娘が助かるのなら。そんな気持ちが湧いてくる。

黒野は看守が後悔するとも言った。脱獄の手助けをしたことを後悔すると言っていたのだろう。少年は獄中にいるというのに、首元に剣が突きつけられている気分だ。

看守はその日、苦悩した。

黒野が牢を出ると宣言した、その日がついに来た。

看守は牢の中を確認して、まだ彼が脱獄していないことを確認した。この二日間ずっと監視していたが、怪しい動きは一切なかった。そうなると、やはり彼は看守に脱獄を手伝わせるつもりなのだろう。

「黒野、お前を逃せば娘は本当に助かるのか?」

看守の心は揺れていた。この少年の王のような雰囲気。それを前にするとまるで不可能がないかのように錯覚してしまう。黒野はこともなげに答える。

「誰にものを言っている? 貴様が協力するのなら、その未来はすでに決定されたものだ」

絶対の自信。思わず付いて行きたくなるような威厳。上が最大限に警戒していた少年。看守の心が屈服するのも、時間の問題のように感じられた。

「……だが、俺は……」

「迷っている時間はない。決定せよ。自らの未来を掴み取れ」

「……俺は……」

そのとき看守の頭に思い浮かんだのは、他でもない最愛の娘だった。娘を救うことができずに打ちひしがれた自分に、娘はたどたどしい話し方で伝えてくれた。

『わたしね、パパのことそんけーする! わるいひとやっつける、ヒーローだもん! パパだいすき!』

(俺はヒーローなんじゃない。悪者をやっつけることもしない。ただの看守だ。だが、せめて娘の前では立派な父親でいたい)

看守の中で決意が固まる。

「……俺をみくびるな。その取引には乗らん。お前をここから出すことは絶対にしない」

「つまらない男だ。だが、嫌いではない」

黒野はそう言うと、徐に立ち上がった。

「さて、では予告通りここから出るとしよう」

「なにを!?」

何をする気だ。そう言い終わる前に視界が闇に包まれた。バチッと火花が散ったのを見て停電したのだと理解する。

(なぜこのタイミングで……まさか!?)

咄嗟に牢を見ると扉が開いている。そして肩に何者かがぶつかる衝撃を感じた。囚人服を着た少年のような影が走り去っていく。あの後ろ姿は。

「脱獄だ! 黒野匠が脱獄した! 追え! 絶対に逃すな!!」

看守が全力で追いかけるも、監獄の外にはもはや脱獄者の影はなく、完全に逃亡された後だった。

(くそっ)

思わず出た悪態。それは脱獄を止められなかったからだけではない。黒野匠の言葉の真意に気づいたからだ。

(黒野は俺が取引に乗ろうが乗るまいが、たやすく脱獄できたんだ。そんな中で取引を持ちかけたのは、ただの気まぐれだったんだ。娘が助かるかもしれない、たった一度のチャンスだったんだ。だから後悔する、と言ったんだ)

看守は拳を握りしめて、俯きながら監獄へ戻っていった。

「っていう情報なんだけど」

情報部の本部あじよしで千石がことのあらましを説明した。それに当然の疑問を投げかけるのが小林部長だ。

「いやいや待てい、黒野はどうやって脱出した? それ以前にその情報はどこから?」

千石はノートパソコンを操作しながら答える。

「黒野匠脱獄は一般報道はされてないけど、同業者間では有名でね。僕も気になっていた件だったから探ってもらった」

「え、ちょっと、それいくら? いくら払ったの? あじよしマネーは最終手段だぞ」

それを聞いて小林部長はなぜか焦り出す。

「安心してよ。情報は情報と交換がこの界隈の常識だから」

「そうかよー。じゃあ、黒野はどうやって脱獄したんだ? 大方想像はできているんだろ?」

「部長、推理小説を後ろから読むタイプでしょ? 少しは自分で考えなよ」

そう千石が釘を刺すと、ぎくっとした部長が観念したように考え出した。ひとしきり唸った後、思いついた可能性を羅列していく。

「黒野は最初から鍵を隠し持っていた、とか」

「厳重なボディチェックがあったでしょ。可能性は低いと思う」

「ほら、そこはマジシャンのテクニックでさ。ミスディレクションだっけ?」

「彼ならできそうで怖いんだけど……」

一つ目の案は却下され、小林は次の案を考える。

「窓があっただろ。そこから鍵やら看守の情報を入手したんじゃないか」

「そこは僕も気になって細かく聞いたけど、猫が出入りするような大きさの窓だよ」

「そこは……飼い慣らしたネズミとかが手伝ってくれたってことで」

「それができたらすごいけど……」

動物を飼い慣らす黒野を想像して、微笑ましいものを感じてしまう千石だった。二人の会話を聞きつけたのか、猫耳帽子を被った女の子が会話に混ざる。

「しゅなもー。しゅなも考える!」

「おう! 俺の分まで考えてくれ!」

「まかせろー」

ふんすと両手を握って意気込みを見せる少女は高野種菜である。

「くろのはいいやつだった。お菓子くれる。ぶちょー、お菓子くれ」

「なんでそうなる……。そういや、種菜は黒野と面識あるんだっけ?」

小林の問いに千石が答える。

「小さい頃ね、僕と種菜は黒野匠と会ったことがあるんだ」

「ふむふむ。それで、黒野にお菓子をもらったのか?」

「いや、あのときは種菜が勝手に食べてただけ」

「そういうことね。種菜、何かを得るにはそれなりの努力が必要なんだぞ。というわけで、これでアイスでも買ってきなさい」

「ぶちょー太っ腹!」

種菜はそう言うと小林に渡された500円玉を握りしめ、どこかに行ってしまった。

「そろそろ聞かせてくれよ。黒野はどうやって脱獄したのか」

「あくまでも僕の推測なんだけど」

「わかってるって」

小林に急かされるまま、千石は事の真相を明らかにする。

「まずどうやって看守の素性を知ったのかなんだけど」

看守は担当になるその日まで自分さえ知らなかった。よって黒野が事前に調査していた線は消える。

「黒野が看守について知る期間は投獄されていた二日間しかないんだ」

「それならどうやって? 黒野は読心術でも使えるのか?」

彼の振る舞いは自信に溢れる王様のようだった。それがあるいは黒野に不可能はないかのような錯覚を与える原因だったのかもしれない。

「黒野匠がって考えるから難しくなるんだよ。ここは仲間が伝えたって考える方が理にかなっている」

「え、じゃあ、監獄に仲間が入り込んでたのか? スパイ? まさか看守が?」

「どこに送り込まれるかも分からないのに事前にスパイを忍び込ませるのは無理でしょ」

黒野匠ならできてしまいそうという気持ちは一旦置いておく。

「でも持ち物は没収されてただろ。電話もメールもない。仲間がその場にいないのなら、こっそりメモを渡すのも無理そうだよな」

「そうだね。だから仲間は遠隔で伝えたというのが一番しっくりくる」

「なるほ・・・いや、小窓しかないような牢屋にどうやって遠隔で情報を送るんだ?」

「そこは気になって調べてもらったんだ。近くの発電所、変電所について」

「発電? あ! 停電か!」

「そう。脱獄直前に起こった停電は明らかに偶発的な物じゃないよね」

黒野が逃げる直前に停電が起こった。そのパニックに乗じるようにして彼はいなくなった。停電が黒野によるものじゃないとしたら、仲間が狙うのはどこだろう。

「調べた結果、監獄に送電している一つの変電所がハッキング被害に遭っていたことがわかったんだ」

「そうか。黒野の仲間が停電を起こして脱獄を……いや、まてよ。それって黒野が看守の情報を知った理由になってなくないか?」

「それがね、できるんだよ。ほら、見てよ」

千石は情報部本部あじよしの室内を照らす蛍光灯を指差す。

「蛍光灯が何か? 若干チカチカしてるな、そろそろ取り替えの時期か……ああ! そういうことか!」

送電量をコントロールできれば、任意に明かりをちらつかせることができる。これでモールス信号に類する情報を黒野に与えればどうなるか。

「黒野がじっと静かにしていたのは明かりを観察していたからだろうね」

「なるほど、それで看守の情報を……いやいや、ちょっとおかしくないか」

「どの辺が?」

「だって、黒野は他の脱出手段を持っていたんだろう? でも看守との取引は脱獄には活用されなかった。じゃあ、なんで仲間はわざわざ看守の情報を送ったんだ。仲間は状況を把握していなかったのか」

「それは黒野から看守の情報を求められたからじゃない?」

「まあそうなるよな。うん、ちがう。仲間から黒野に対する連絡手段はあるけど、黒野から仲間に対する連絡方法がない」

「窓があるじゃない」

「そっか、窓か。って、窓の可能性は散々否定してきたじゃん!」

「別に僕は窓の小ささを強調しただけで、活用できないとは言ってないよ」

「じゃあ、小窓からどうやって情報を伝えるよ? 不審な動きはなかったって看守も証言してただろ」

「窓ってさ、高い所にあると空が見えるんだよね」

「そりゃあ見えるだろうよ、え? 空?」

「さすがに僕もまさかと思って調べたんだけど、あったんだよね。空から黒野匠を確認するチャンスが何回も」

「マジですか」

「マジです」

実際、その二日間に監獄の上空を飛んだ航空機は16台、上空を通過した衛星は3機に及ぶ。

「視認さえさせられれば情報を送るのはなんとでもできるよね」

それこそモールス信号式でもハンドサインでも。

「おいおい、それも全部黒野匠が仕組んだことなのか」

「さすがにどの航空機が黒野の手によるものかは分からなかったよ」

「しかし、まだどうやって脱獄したのかが謎なんだが」

「それがね、僕が推測するに、黒野はあの時点ではまだ脱獄してなかったんだよ」

「へ? 停電があって、鍵が開いてて、看守の肩に黒野がぶつかって、逃げてったんだろ?」

「違うって。看守の肩にぶつかったのは黒野のような影だよ」

「おい待て、その言い方はまるで黒野じゃない誰かが逃げたみたいな……そういうことか」

小林の脳裏には、その時の様子が映し出されていた。

監獄にいる看守と黒野。急に停電になりパニックになる看守。暗闇に乗じて何者かが黒野の牢の扉を開け、看守の肩にぶつかり逃走。看守は黒野が逃げ出したと勘違いし、他の警備も引き連れて追跡。見張りが誰もいなくなった監獄。

そして、悠々と牢から出てくる黒野匠の姿。

「黒野匠やばくないか?」

「やばいね、彼は怪物じみた天才だよ」

「でも、だったら尚更なんで捕まったんだ」

「それこそが一番重要なところだと思ってる」

「ほう」

「黒野匠がわざわざ逮捕と脱獄を演じてまでその監獄に行った理由がね」

「その監獄に何か重大な秘密あると」

「多分そういうこと。あともう一つ」

「まだあるの?」

「看守の肩にぶつかった謎の人物のことだよ」

「あー、そういえばそこがまだ分からなかった」

「黒野匠がハッカーの集団と繋がりがあることはわかっていたんだけど、最近になって別のグループのボスなんじゃないかっていう話が浮上してきたんだ」

「潜入が得意なスパイ集団とか?」

「当たらずとも遠からず。各地で怪事件を起こしている正体不明の集団、ブラックバードだよ」

「え、ブラックバードって世界の4大勢力の一角っていわれてる?」

「そうそう」

「もしかして、想像以上の大事件?」

「その前触れ、かな」

自分たちの出した結論に、小林と千石は息を呑む。窓の向こうにはアイスを買ってきた猫耳帽子の女の子が帰ってくるところだ。

「この件、さらに踏み込むか早々に退くか。部長の選択に任せるよ」

「うん、まあ、覚悟はとうの昔にできてるんだけどな」

小林の口元に笑みが浮かぶ。

「今夜、動くぞ」

「了解」

「? らじゃー」

小林の宣言に千石が頷き、帰ってきたばかりで何も知らない種菜がビシッとポーズを決めた。

その夜、情報部が動いた。