短編集『恋』

短編集『恋』 #

待ってたよ、その合図 #

『お名前: 折原みゆず』

声に出して読んでみる。書いては消し、書いては直した字。まだ気に入らない。

(お習字、ならっておけばよかったな……)

そう思っても、もう遅い。今日が期限だから。つづきを読む。

『応募の理由: わたしはイルカが大好きです。イルカたちの世話をしてみたいです。いつかドルフィントレーナーになるのが夢です。』

こんな理由で大丈夫かな。子どもっぽいって思われるかな。心配になる。ドキドキする鼓動を感じて、大きく深呼吸した。両手に持っているプリントを、最後にもう一度見返す。

『水族館だより: ボランティア募集中! 生き物たちを身近に感じることができます。(中学生以上)募集人数3名。応募多数の場合は・・・──』

プリントをたたんで、顔を上げた。目の前には小さな郵便局。もう決心はできている。 封筒にプリントを入れた。勇気を出したら、少しだけ落ち着いてきた。車の通る音や鳥のさえずりが聞こえるようになり、自分がすごく緊張していたことにようやく気づいた。

『プリント送ってくれてありがとう! さっそく応募してみたよ! 受かるかなぁ・・・ドキドキだよぉ〜。またMessageするね!』

先に家にいたお兄ちゃんに話したあと、買い物から帰ってきたお母さんに聞いてもらって、それでもまだドキドキが収まらなかったから、スマートフォン片手にベッドへ飛び込んで、友達とのトークにメッセージを書き込んだ。しばらく待つと、アイコンの吹き出しがポコッと出てくる。

『ほんと?! やりおる! きっと大丈夫さ! 夢は叶う!』

彼女らしい返事に、くすっと笑った。なんどかメッセージのやり取りをしているうちに、

「おーい。ご飯できたぞー」

とお兄ちゃんの声が聞こえてきた。ハンバーグかな。美味しそうな匂いがする。ベッドから起きると、衣装だなの上のぬいぐるみたちが、ごろんと横になっているのが目に入った。小さなころに買ってもらった、イルカのぬいぐるみ。小さいのと大きいのと中ぐらいのと、お父さんが毎年のように買ってくるので、今ではこんなにたまってしまっている。一番のお気に入りは、背びれにリボンをつけた、小さなイルカのぬいぐるみだ。

中学生だから、もちろん今日も学校だ。わたしの学校は上り坂と下り坂と、また上り坂があってすこし遠いけど、歩いていける場所にあった。

「先生! セミはどうやって鳴いているんですか?」
「いい質問だなぁ。だれかわかる人はいるかい?」
「羽を鳴らすんじゃねーの?」
「おおいいぞ! だが、ちがうんだなぁ」
「えーぜったい羽だと思ってたのに!」
「羽をこすって鳴らすのはコオロギだなぁ。ちなみにセミの羽は飛ぶ専用だぞー」
「なんだよそれー」
「セミはだなぁ、おなかの膜をふるわせて音を鳴らすんだぞー」

ジージーミンミン、セミたちの大合唱のなか、授業はすすむ。応募のプリントを送ってから、2週間が過ぎた。学校に通っていると、毎日が騒がしくあっというまで、そのことも忘れかけてくる。それよりも今は、別なことに思いが傾いていた。

「ねーみゅーたん、生きてるー?」
「生きてるよぉ~」

ホームルームが終わると、ともちゃんに肩をゆさゆさ揺らされた。ブランコみたいで、すこし気持ちがいい。ともちゃんはだるそうに声をかけてくる。

「みゅーたん、干からびてなーい?」
「大丈夫だよぉー」
「こんなに暑いとさ、もうすぐ溶けちゃうね」
「それはたいへんだよー」
「だからさ!」

急にシャキッとする、ともちゃん。そして、学級の掲示板を指さした。そこには「あと○○日」と書かれた、手作りの日めくりカレンダーが貼ってある。

「あ!」
「そうさ!」
「もうすぐ夏休み!」
「そのとおり!」
「楽しみだねー!」
「くぅ~、あたしゃこのために生きてきた!」

両腕を天につき上げて、勝利のポーズをするともちゃん。

「それはちょっとまずいよ・・・」
「ごめん、ちょっと浮かれすぎた」
「でも、いっしょに遊べるといいね」
「水切りしような!」
「・・・え?」

よっぽどうれしいのか、彼女は帰り道で別れるまで、ずっとこのテンションだった。家に着くと、いつもどおり玄関の前のポストのふたをあけて、中のものを取り出した。お母さんが洗濯物をとりこんでいたので声をかける。

「お母さん、たくさん郵便きてるよ」

手紙を渡した。

「あら、これはみゅーたん宛ね」
「え?」

少し大きなサイズの封筒。見覚えがある。

「……あ!!!!」

思わず声が出た。送り主は水族館。

「……お母さん、これ」
「そうね。さっそく開けてみましょう?」
「うん」

恐る恐る手を伸ばし、封を切った。中に入っている数枚のプリントを取り出す。 それからしばらく、わたしは慌てた。

よっぽど動転していたのだろう。学校から帰ってきたお兄ちゃんが慌てている私とそれをなだめるお母さんの姿を見て、スポーツバッグを肩にかけたまま、しばらく目をまるくしていた。

『あわわわっ 受かってしまった! どうしよう! どうしよう!! どうしよう!!!』

夕食を食べ終わってもドキドキが収まらず、部屋に戻ってトークに書き込んだ。すぐに返事が返ってくる。

『うおっ!? どーしたどーした?? そういうときは深呼吸だよ、ワトソン君。まずは落ち着こう。ここで待ってるからさ』

そうか、深呼吸か。ありがとうホームズ。すぅーはぁーすぅーはぁー・・・と、呼吸を整える。

『うん、ありがとう。がんばって落ち着く』

ベッドに広がった、水族館からの手紙を見る。受かったんだ! 最初はドキドキしすぎて、くるしいぐらいだったけど、落ち着いてくると、徐々にうれしい気持ちになってくるのが分かった。小さなイルカと大きなイルカの両方をもってきて、ぎゅーっと抱きしめた。そのままベッドにごろん。何度も行った水族館、小さなころから大好きだった。水槽に顔をくっつけるように、いろんな生き物を見ていた。でも今度は、そのガラスの向こうに行けるんだ。そう思うと、すごくうれしかった。コロリンという音がして、新しいメッセージが届く。

『・・・どう? 落ち着いた? 状況から推理すると、応募したやつが受かったということかな、ワトソン君。やったじゃん! お祝いにクッキー作ってあげよう!』

ともちゃんはときどき、すごく察しがいい。おちゃらけたふりして、じつはやさしい。

『わーい、ありがとう! クッキー楽しみだよ〜』

今年の夏休みは、きっと特別なものになる、そんな気がした。

あっという間に、終業式。

「君たちはダイヤモンドの原石なんだ。いまはまだ粗削りだが、人と出会い励まし合うことで輝ける。そして・・・──」

夏休み前の授業は、先生の長話で幕を閉じた。そして。ついにやってきた夏休み。

「みゅーたん!」

ガシッと肩をつかまれ、振り向くとやっぱり、ともちゃんがいた。

「このときがついに来たよ!」
「そうだね!」
「待ってろよー! 水切り!!」
「えっとそれは・・・」
「だが!!」

ともちゃんの手に力が入る。ゴゴゴという音がしそうな様相で、顔が近づく。ちょっと怖い。

「みゅーたん、明日からボランティアじゃん!?」

そうなのだ。水族館でのボランティアは夏休みの初日から始まる。下校中も賑やかだ。

「なんてことだ! みゅーたんを盗られてしまったぁ!!」 「盗られたって・・・」

頭をかかえる大げさなリアクションで絶望感を表現するともちゃん。

「返せー!!」 「そ、そんなに揺らさないでよぉ~」
「ぐおー!!」
「わわわ!」

ぐわんぐわんに揺らされる。家へ着くころには、目が回りそうになりなそうになっていた。

「ただいま~」
「おかえりー。冷たいサイダー飲む?」
「飲むー」

玄関に入ると、お母さんが待っていてくれた。明日から夏休み。ボランティアが始まる日だ。

朝の7時。アラームがなる前に、自然に目が覚める。あっという間にこの日が来た。お気に入りの服に着がえて、朝ごはんを食べる。準備は万全。

「行ってきまーす!」
「お弁当もった?」
「もったぁ」
「水筒はちゃんと入れた?」
「入れたってば」

そんなやり取りをしながら、家から出た。太陽がまぶしく照りつけてくる。水族館まで、バスで行けば20分ぐらいだ。

「おい、近道しようぜ!」
「待ってよ~」

元気に遊ぶ子どもたちと、すれ違う。バス停に着くと、ちょうどよくバスがやってきた。手すりにつかまって揺られていると、少しずつ景色が港町らしい活気をおびてくる。目の前に広がる水平線。海だ! 港には数隻の漁船、カモメたちが空を舞っている。潮の香りを感じながら海沿いの国道を歩くと、サーフボードを括り付けた自転車が、わたしを追い越す。風にあおられて振り向くと、浜辺が太陽色にキラキラ輝いていた。午前の早い時間なのに、もう泳いでいる人がいる。さすが夏休み。点滅する信号機、急いで渡る。水族館のゲートはすぐそこだ。

「おはようございます」

水族館の前で手紙をもってウロウロしていると、受付のお姉さんが声をかけてくれた。

「お、おはようございますっ」

ロボットみたいに、ぎこちないお辞儀をしてしまう。

「ボランティアでしょ?」
「は、はいっ」

お姉さんは終始ニコニコしている。

「中学生?」

わたしがうなずくと、お姉さんは嬉しそうに手を合わせた。

「あら! わたしもあなたと同じくらいのころ、ボランティアに参加したことがあるの」
「お姉さんも?」
「そうよ。すごい偶然ね!」

それからお姉さんは、こっそり教えてくれた。

「ボランティアで若い子はあんまり、ううん、ぜんぜんこないの」
「そうなんですか?」

(私がいちばん年下なのかな……ちゃんと役に立てるかな……)

少し不安になる。気持ちを察してくれたのか、

「ボランティアは常連さんがほとんどだから、いろいろ助けてくれると思うわ」

と付け加えてくれた。お姉さんは潮風になびく長い髪をおさえて、水族館を見つめる。そして、思いがけない質問をした。

「あなたは……イルカは好き?」
「大好きです!!」

わたしは力強く返事をした。

「常連さんってどんな人たちなんですか?」
「そうね、ちょっとおじちゃんおばちゃんだけど気さくで優しい人たちよ」

お姉さんが言ったとおり、残りのボランティアは穏やかそうな人たちだった。とても仲良さそうだから、もしかすると夫婦かもしれない。それからもう一人、白髪の男性がやってきた。

「あの人がこの水族館の館長よ」
「館長さん!」

偉い人だ、と思って背筋が伸びる。お姉さんは小声でいたずらっぽく、

「平均年齢ぐっと上がっちゃったわね」

と言った。案外おちゃめな人だ。

「みなさま、今日はご足労ほんとうにありがとうございます」

館長さんは、深々とお辞儀をした。その礼儀正しさにすこし恐縮してしまう。それから一人ひとりに水族館のパンフレットを渡してくれた。これから水族館の中を案内してくれるそうだ。

海の歴史の話とかを聞きながら、5人は水族館の中を歩く。なぜか受付のお姉さんも一緒だ。まだ開館前だからか、いつもより薄暗い。水槽を覗くと、クラゲたちがぷかぷかと気持ちよさそうに漂っていた。ときどき扉のカギを開けて、普段は見られない様子を見せてくれる。中では飼育員さんが、デッキブラシやバケツをもって、水槽の掃除をしたりしていた。エサをあげている、飼育員さんが私たちに気づいて、みんなに見えるようにエサをあげてくれた。

「仕事ぶりを見せたくて、はりきってるんだ」

館長さんがそう言って笑った。動物たちは慣れているのか、 となりを通っても知らん顔で、 エサに夢中だったけど、ときどき人懐こい子もいて。見学している間ずっと、わたしはドキドキしていた。

『今日から飼育のお手伝い! 作業着の裾は長靴に入れるんだよ! 14才らしからぬ!』

上下セットの作業着、腰につけるエサ箱。さらに、防水オーバーオール。覚悟はしていたけど、着てみると仕事人! みたいな恰好になる。

『それはね、最先端なんだよ、きっと。未来のファッションなのさ!』

床をゴシゴシ磨いたり、ホースを片付けたり、そんなの感じのお手伝いだった。あと、エサの準備もした。大量のエサだ!

『ファッション!? そうか、作業着はファッションなのか。バケツ重たし・・・』

「みゆずちゃんは働き者ねー」

ボランティア3日目。声をかけてくれたのは、同じボランティアのおばさんだ。

「麦茶とアイスコーヒー、どっちがいい?」

休憩時間になるとおばさんはリュックから水筒を取り出して、紙コップに飲み物を注いでくれる。おじさんもやってきて、汗をぬぐいながら言う。

「コーヒー頂戴」
「あら、あなたには聞いてないわ」

おばさんがそう言うと、二人は笑った。ちなみに、この二人はやっぱり夫婦だった!おじさんは昔、船乗りだったらしい。物柔らかだけど、いろいろな話をしてくれる。

「こんないい子に聞いてもらえて、良かったわねー」

二人はまたことことと笑う。ほんとうに和やかだ。

「こっちこっち」

休憩時間が終わるころ、お姉さんが私を呼びにやってきた。手招きされるまま、屋外の通路に出ると、午後の潮風が髪をなでる。

「いいもの、見せてあげる」

お姉さんはそう言って、私の手を引いた。着いた先は、ステージの舞台袖。

「瞳ちゃん! 早く早く!」

そう呼んだ若い女性のスタッフは──瞳ちゃんっていうのは、きっとお姉さんのことだ── 舞台衣装を持って待っている。

「あっれ、その子どしたの?」
「わたしの友だちの折原みゆずちゃん」
「へぇー! 学生さん?」

中学生です、と私が答えると、

「わぁ、若ーい! ……あっ! 瞳ちゃんのように若くて可愛い!」

慌てて言い直すスタッフさん。少し気になる……。

「じゃあ、ここで待っててね」

そう言って瞳さんは、控室の方へ入っていった。すると、女性スタッフが話しかけてくる。興味津々といった様子で。

「ねぇねぇ、瞳ちゃんとはいつ知り合ったの?」
「えっと、昨日です」
「昨日! ずいぶんとフィーリングが合ったのねー!」

そして、そういうのって大事よねーと言いながら、うんうん頷いている。

「お姉さんは、ドルフィントレーナーなんですか?」

気になったので聞いてみる。

「あたしのこと?」
「はい」
「うん、そう」
「そうなんですか!」

目の前にドルフィントレーナーいると思うと、少し興奮する。

「瞳ちゃんと同じだよ」
「え? 同じって……?」

瞳さんは、受付のお仕事をしていたような……。

「ま、同じーとか言いつつ、あたしにとっては憧れなんだけどね」

「さ、ショーが始まるよ!」

イルカの鳴き声や波の音にまじって、神秘的な音楽が流れてきて、まるで深海にいるような気分になる。

『……ディ、レイ』

あれ、なんだろう。どこか遠くから、かすかに声が聞こえる。それはどこか懐かしく、まるでどこかに置き忘れてきてしまったような……。耳を澄まそうとした瞬間、視界に映る景色に、私は釘づけになった。イルカの大ジャンプ! そして、合図を送るのは……

「瞳さん!」

泳げの合図。回れの合図。飛べの合図。まるでイルカと会話するように手を伸べる瞳さん。初めてイルカショーを見た、あの日のドルフィントレーナーと影が重なる。

(……もしかして!!)

宇宙を散歩するような躍動感の中、わたしは高揚する気持ちを抑えられなかった。

── かつては水泳界のエースで、今はドルフィントレーナー。
── 海の歌姫、椎名瞳。

壮大なバックグラウンドミュージック、瞳さんの透き通るような歌声が響く。イルカたち入れ替わり、次々とショーが展開していく中で、体が動きだすようなグルーブへと繋がっていく。空を舞うカモメがシンフォニーに加わって、舞台は大団円へと速度を進める。

『すごいすごいすごいっ! どうしよう、舞台袖から見るショー、超かっこいい! 写真送るね!

感動を独り占めするのはもったいなくて、何枚か写真を撮って、ともちゃんに送った。

「どう? かっこいーでしょー?」

出番を終えたスタッフさんが、声をかけてくれた。

「はい! すごくすっごく!!」

帰宅後も興奮が冷めない。

「それでね! 思い出の人が、その人かもしれないの!」

厚焼き玉子をもぐもぐごくんと飲み込んで、私は話した。

ドルフィントレーナーを憧れるきっかけになったイルカショー。そこで見たトレーナーに、瞳さんがそっくりなのだ。

「憧れの人かぁ」
「そう! かもしれない!」

わたしが意気込んで言うと、 お兄ちゃんはうーんと天井を見つめた。

「でも、それって、イルカショーだよな?」
「うん」

何かを思い出そうとするように、人差し指で口元をなぞるお兄ちゃん。考え事をするときのクセだ。

「たぶん、その思い出のショーっていうのは……」

そう言って、ちらっと玄関のほうを見た。下駄箱の上には、そのときの家族写真が飾ってある。水族館で撮った写真。

「イルカじゃなくてシャチだったと思うんだ」

お兄ちゃんの意外な言葉に、数回まばたきした。

「ふわわぁぁぁぁ~」

翌朝。昨日のお兄ちゃんの言葉が気になって、あまり眠れなかった。シャチだと言われれば、そうだったような気がする。だとすると、憧れの人はシャチのトレーナー? でも昨日のショーはイルカショーで……。じゃあ、瞳さんは全然違う人? 頭の中がぐるぐるしてきて、しゃきっとしなきゃと首を振った。

「みゆずちゃんおはよー」
「あ、おはようございます!」
「今日もプール磨きがんばってねー」
「はい!」

少しずつだけどボランティアにも慣れてきて、飼育員たちにも声をかけてもらえるようになってきた。ゴシゴシゴシゴシと、デッキブラシを前後に動かして水槽の底を磨く。ふと視線を上げると、奥の水槽から動物がこっちを見ている。

大きくて堂々とした体型、白と黒のシルエット模様。そこには、一頭のシャチがいた。私が見ていると、そのシャチは隠れるようにプールの奥へ泳いで行ってしまう。追いかけてみようと近づこうとすると、

「あら、みゆずちゃん」
「瞳さん!」

ばったり瞳さんと鉢合わせした。そうだ、まだちゃんとお礼を言えてなかった。

「昨日はありがとうございました! すごくかっこよかったです!」
「よろこんでもらえて、うれしいわ」

瞳さんは微笑んでから、私の持っている掃除用具に目を留めた。

「今日はプール磨き?」
「はい! あ、あっちのですけど・・・・・・」

サボってるって思われちゃったかなぁ。それから、さっきのシャチのことを聞いてみる。

「あの、さっきここにいたシャチは?」
「ディンのことね」

お姉さんは説明してくれた。ディンは、シャチの男の子だ。男の子といっても、体長はほとんど大人と変わらない。本当の名前は「D0(ディーゼロ)」。この水族館では、ディンという愛称で呼ばれている。

「ディンは賢くて、おとなしい子」

お姉さんが来たことに気づいたのか、すーっと戻ってくるディン。エサが欲しいのかな。ディンはこちらをじっと見つめている。

「最近やっとジャンプができるようになったんだけど・・・」

お姉さんはそこで口ごもる。言いにくいことがあるのかな・・・。

「あの、わたしが小さいころ、シャチのショーを見たかもしれないです」

小さいころに見たのはシャチのショーなのかな。それはディンだったのかな。ずっと気になっていた。すると、お姉さんは少し驚いたように言う。

「・・・それは、もしかしてシーナのことかしら」
「シーナ?」
「シーナはディンのお母さんなの」

シーナの本当の名前はC7(シーセブン)。そう教えてくれた。

「瞳さんは、そのシャチとショーをしていたんですか?」
「そうよ。シーナは頭もよくて、演技も上手。最高のパートナーだったわ」

それから名前も一緒なの、と付け加える。そういえば瞳さんの名字は椎名(しいな)だ。もし、わたしが見たのがシャチのショーだったのなら、そのシャチはシーナなのかもしれない。

「だから、シーナがいなくなったのは、本当に残念」
「いなくなった?」

お姉さんは声のトーンを落とした。

「死んじゃったの」
「え!」

はっと、両手をにぎる。シーナは死んじゃった?じゃあ、ディンは・・・。・・・ディンは、ひとりぼっち?

『シャチは家族を大事にする生き物だ』

そう図鑑に書いてあったことを思い出す。家族や兄弟、仲間たちといっしょに生き、成長する。

「ディンは、さみしいわよね」

もともとおとなしいシャチだったディンは、お母さんをなくしてから、いっそう元気をなくしているそうだ。ここにはシーナのほかには家族がいない。

「やっぱり私じゃ、家族にはなれないのかしら・・・」

瞳さんも、寂しそうだ。独りぼっちのディンは、私たちの話を知ってか知らずか、ゆっくりプールを泳ぎだす。

「わたし、ディンがショーをするところ、見てみたいです」
「そうね、見てみたいわ」
「ディンはショーに出ないんですか?」

瞳さんは、首を振った。

「もし、この先もショーに出れなかったら、ディンは引退なの」
「引退・・・」
「どこか、シャチのいる水族館に行くことになるわ」

そのほうが幸せだもの、と瞳さんは小さくつぶやいた。

「ディン、こっち!!」

思い立って、ディンに呼びかけてみた。

「みゆずちゃん、なにを・・・」

瞳さんが、不思議そうな顔をする。私は手を掲げて、見よう見まねで合図をした。

「ジャンプだよ!」

すると、ディンは高い声でキューと鳴いて、尾びれを力強く動かす。ぐるっとプールを回ってスピードをつけ、そのまま勢い余って、プールサイドによじ登ってしまう。

「わ、わーっ」

プールサイドが水浸しになって、散らばる清掃用具。でも。わたしは確信した。

「瞳さん! ディンはショーができます! ほんとうはしたいんです! だから・・・」

── だから、ディンをショーに出させてください。

その日から、ディンとの特訓が始まった。

「思えば、シーナもそうだった」

特訓をこころよく許してくれた館長さんが、しみじみした様子で言った。

「瞳さんがいて、あそこまで上手なショーをするようになった」

ディンには、君が必要なのかもしれない。館長さんはそう言った。私はボランティアの合間に、瞳さんと一緒に、ディンとショーの練習をした。最初は勢いに任せて泳ぐだけだったディンが、少しずつ動きを覚えて行く。

「あのディンが、こんなに元気に・・・」

瞳さんは言葉につまりながらも、嬉しそうだった。練習すれば、きっとショーに出られる。きっと、ジャンプもできる。そう信じて、何日も練習を続けた。

思い出していた。セピア色の古ぼけたような映像が、少しずつよみがえってきた。

「でぃー?」

そうだ。これは、あの日、シャチのショーを見たあとのこと。

「ディーゼロ。この子の名前だよ」

ステージの近くのプールに、ショーが終わったばかりのシーナと、生まれたてのディンがいた。

「でぃーろー?」
「ちがうちがう、ディーゼロ。ほら、ディー、レイって書くんだよ」
「でぃー・れい!」

お兄ちゃんが、一生懸命、私に名前を教えようとしていた。

「おーい、こっちで写真とるぞー」

そう。出会っていたのだ。ディンとも、シーナとも、最初から。

ついにやってきた。ディンがショーに出る日だ。

「ディン、がんばって! 見守ることしかできないけれど、信じてるから!」

ディンと私は、心通ったように思えた。きっとディンならできる。

「じゃあみゆずちゃん、ここで応援しててね!」
「はいっ!」

引退をかけたステージが、ついに始まる。音楽が、静かな旋律から、軽快なリズムへと移り変わっていく。ディンの出番が近づいてくる。躍動感が高まるなか、瞳さんが合図を出す。

(ディン、今だよ!)

だけどディンは飛ぼうとしない。一瞬とまどった表情をする瞳さん。もう一度、合図を出す。

(ディン・・・どうして! どうして飛ばないの?)

なんど瞳さんが合図を送っても、見送るばかりで、一向に飛ぼうとしない。

(やっぱり、ショーは出たくなかった? 練習は嫌だった?)

それでも。ディンを信じていた。

「みゆずちゃん!」

瞳さんが、ふいに私の名前を呼ぶ。そして見慣れた手振りで、私に合図を送る。・・・・・・『来て』だ! わたしは飛び出した。目一杯の声で叫ぶ。

「ディン! ジャンプだよ!!」

そして、合図! 一瞬の沈黙。観客たちは息を呑んで見守っている。しずかに動き出す、強大な力。水面に大量の泡が浮かんで、いくつもの波紋を作る。巨体が水面を割って、姿を現した。海の王者、シャチの見たこともない大ジャンプだ! 湧き起こる歓声と水しぶきの中、 たしかに聞こえた気がした。

──待ってたよ、その合図。

後日。お父さんがこう言った。

「シャチの引退、取りやめになったらしいな」

お母さんがこう言った。

「みゅーたん大活躍ね!」

お兄ちゃんがこう言った。

「そういえばあのときも、そのシャチとショーに出たいって言ってたよなぁ」

ともちゃんがこう言った。

「すこし寂しそうじゃん? でもしばらくは、普通の中学生に戻らなくちゃね」

ボランティアの夫婦がこう言った。

「また来年も参加しようか?」
「あら、めずらしく同感ね」

若い女性スタッフさんがこう言った。

「みゆずちゃんって、若いころの瞳ちゃんにそっくり! あっ! 瞳ちゃんは今でも若いですっ」

館長さんがこう言った。

「イルカの記憶力は寿命を上回る。シャチが君を覚えていたのも頷ける」

瞳さんがこう言った。

「ディンは今もあなたの合図を待ってるわ。だから、いつでも遊びに来てね」

鈴木くんと佐藤さん #

登場人物

  • 鈴木悠人(すずきゆうと)
  • 佐藤陽菜(さとうはるな)

放課後はいつも、ここに来る。寂れた旧校舎の奥にある、それまた古びた天文台に。これでも天文部の部室として使われている場所だ。たぶん来年には、誰も使わなくなるだろう。もうすぐ、廃部になるから。僕も一応部員だし廃部は避けたいと思ってるけど、今どき誰も星なんて興味ないのか、桜の咲くころには部員は二人だけになってしまった。

・・・・・・

でもまあ。部活は所詮、課外活動だし、そんなことどうでもいいことなのだと自分に言い聞かせてはいるけれど。それはそれでもやもやが残る。

「先に来てたんだ」

女生徒に声をかけられる。佐藤陽菜(さとうはるな)。クラスメイトだ。そして幼馴染でもある。彼女も天文部員だった。部員は僕と陽菜の二人だけだ。

「思い出しちゃうよね、いろんなこと」

天文台の建物を見つめて、うんうんと頷いく彼女はたぶん、何にも考えていない。

「じゃあこれは覚えてる? シリウス、プロキオン、ベテルギウス」

答えは冬の大三角形。べつに天文部でなくても知っている人は知ってる。

「わかった! 北斗七星でしょ」
「僕は三つしか言ってないんだけど」

どうしてこんな子が天文部に入ったのか、奇想天外な解答をする彼女を見て今でも不思議に思う。陽菜は中学生の時はバレー部だった。僕は当然それを続けるものと思っていたし、廃部の見えてる天文部に入りたいなんて言い出したときには、熱でもあるのかと本気で心配したものだ。それでどういうわけか尋ねたら、

『今日から星が大好きになってたから』

と意味のわからない言い訳をして、それ以来ろくな活動もせず、星の名前一つも覚えられないまま今に至る。

「今日は部活していくの?」
「一応」

陽菜が聞いたので、僕は頷いた。やってもやらなくてもどっちでもいい部活。そういう意味にも取れる会話。でもこれが天文部の現状だ。

「やった。じゃあ、すごろくやろうよ」
「なんでさ」

嬉しそうに言う陽菜に、僕は呆れて首を振る。なぜにすごろく? 彼女は続けてこう言った。

「昨日さ、がんばって作ったんだよ」
「がんばる方向、絶対間違えてる」

僕はそう言って、ため息をついた。とはいえ、僕だって別に何かやることがあるわけではない。陽菜がいれば適当に喋って、いないなら読書か宿題をやる、そんな感じだ。ときおり新校舎の方から聞こえる、元気のよい運動部の掛け声が耳に届くと、僕らが怠けているのか僕らだから廃部になるのか、あるいは彼らがすごいだけなのか、終わりのない考え事で無為に時間を過ごすことになるのだ。ああなんだ、僕だって対して変わらないじゃないか。

「ほら悠人、3マス戻るだよ」
「またかよ」

結局すごろくで遊ぶ僕らがいた。なんだ、やってみると案外面白い。

「けっこう本格的なんだな」
「すごいでしょ」

僕がすごろくの出来を褒めると、陽菜はこそばゆそうに笑って、それからサイコロを振った。

「やった、ラッキーゾーン」
「なんだそれ」

陽菜の駒は星マークのマスにとまった。彼女はそれを指差して、こう言う。

「『悠人が私にお菓子をくれる』」
「お菓子なんてない」
「ジュースでもいいから、自販機あるじゃん」
「それじゃただのパシリだ」
「えへへ」

陽菜はのんきに笑ってるし、まったく。

「自販機、遠いんだよなあ」
「いい運動になるよ」
「しょうがないな」
「ファイト」

そう掛け声をかける陽菜に僕は見送られて、すごろくが広げられてる机に天体望遠鏡、ここ本当は天文部室だよなとミスマッチが未だに馴染まない。

「ほら、買ってきたぞ」
「さんきゅ、・・・・・って、お茶じゃん!」

陽菜が不満そうに口を尖らせる。僕はむっとしてこう言った。

「買ってこいって言ったの、お前だろ」
「そうだけどー」

彼女はそう言って苦笑いをする。本当はパシリらされるのがしゃくで、わざとお茶にしたのだけど。

「むぅ、せめて甘いのが良かったな」
「悪かったな、本当はこっちだよ」

僕はバックからもう一本を取り出した。陽菜の好きなバナナオレだ。

「よく甘ったるいの飲めるよな」
「これが美味しいの」

僕と陽菜は食べ物の意見が合わない。小さい頃からそうだった。陽菜がうちに遊びに来た時のことだ。目玉焼きに何をかけるか、しょうゆかソースかそんなことで言い合って、どっちも譲らなくて収拾がつかなくなって、見かねた母がケチャップを持ってきて、それでようやく丸く収まったのだった。ちなみに母は単にケチャップが好きなだけだったと、あとになって気づいたのだけれど。

「次、悠人の番だよ」
「じゃあサイコロ貸してよ」

僕は陽菜に促されるままサイコロを振った。6の目がでる。たどり着いたマスにはハートマークの描かれていた。僕は陽菜にこう尋ねる。

「これもラッキーゾーンなの?」
「そ、それは、ちがくて」

陽菜は手を振って否定する。マスに何かが書き込まれていて、それを読もうと僕は前かがみになる。

「えーと、相手は好きな人の名前を」
「待ってストップ!」

陽菜は慌てたように言葉を遮った。

「待てなのか止まれなのか、分かんないよ」
「ちがうの。これは悠人専用で、あっ」

陽菜はそこまで言いかけて、急いで口を塞いだ。なんだ。僕だけに仕掛けるつもりで何か工作してたのか。僕は苦笑して、こう言った。

「別にいいよ、これで一つ貸しにできるし」
「悠人ずるい!」
「ずるくないよべつに」
「言えるもん、好きな人の名前ぐらい」

ムキになる彼女を見て、陽菜は小さい頃から何も変わっていないなあと、思って笑ってしまう。

「あーいま笑ったでしょ!」
「笑ってないよ」

笑ったけど、べつにおかしくて笑ったとかそういうのじゃない。陽菜は意を決したように言葉を紡いでこう言った。

「私が好きな人は・・・・・・ゆ、ではじまって、と、で終わる人」
「そっか」

僕が頷くと、彼女は晴れやかにこう言った。

「ほら言ったよ」
「そっか」

僕は再び、そう言った。気づいてないふりをしているつもりはないけど。

「じゃあ次は、悠人が言う番だよ」

陽菜は言った。僕はこう問い返す。

「そういうルールなの?」
「だって、私はちゃんと言ったもん」

陽菜の考え方はときどきわからない。

「はあ。困ったなあ」

こんな他愛のない会話をしてそれでも僕は、屈託のない笑顔の彼女を見ると、心に濃い影がかかるのを、そして胸が痛むのを感じて、それをそっと隠すのだ。次の日。

「今年も夜桜、見に行こうよ」

隣を歩く陽菜が言った。この道の桜は、夜になるとライトアップされるのだ。僕は渋い顔をして、こう答える。

「ぜったい嫌だ」
「えー、ケチ」

陽菜は残念そうに言うので、僕はこう言い訳した。

「陽菜も覚えてるだろ、あの人だかり。おまけに途中ではぐれるし、散々だったよ」
「迷子になったのは悠人の方!」
「どっちでもいいだろ」
「良くない」

またムキになる陽菜。

「それに桜だったら天文台の周りでも見れるし」

僕がそこまで言うと、陽菜は急に顔を輝かせるので嫌な予感しかしない。こういうときの彼女は突拍子もないことを思いついて、周りを巻き込むのだ。陽菜は小走りで数メートル先に進んで振り返り、僕と正面から向き合ってこう言うのだった。

「私たちでライトアップしようよ。夜に、天文台で!」
「むちゃくちゃだ」
「無茶じゃない」
「そんな遊び、許可取れるわけないだろ」

そう反論すると、彼女はこう主張した。

「遊びじゃないよ。星を見るの。だって天文部だもん」

あくまで部活動だと言いたいわけか。陽菜は続けてこう言った。

「私たち天文部なのに、部活らしいこと何もしてないよね。星空の観察してみたいよ」
「本当は夜桜見たいだけだろ」
「えへへ」
「分かったよ、あとで先生にお願いしてみる」
「ほんと?」
「天体観測は真面目な活動だし、僕もいいと思う」
「やったあ」

そう言って喜ぶ陽菜に、僕はこう釘をさした。

「あとな、もし許可がとれてもお菓子は禁止な。それとゲームも」
「えー」
「遊びじゃないんだろ?」
「わかったよう」

彼女はしぶしぶ頷いた。もう学校はすぐ近くだ。

「じゃあまたあとで」
「ちゃんと先生にお願いしてね」

僕たちは校門をくぐり、それぞれの教室へ向かった。放課後、天文台の前。静かというよりは寂しい。そんな場所だ。陽菜はまだ来ていない。僕は背丈のまばらな芝生の隅っこにあるベンチに腰掛けた。学校での騒がしさもここではずいぶん和らぐ。天文台を見ると午後の日差しで、赤く照らされている。天文部員らしいことを言うと、太陽は大きな時計だ。人はそれを頼りに生きてきた。天体はずっと僕らの生まれる前から時を刻んでいる。僕は唐突に酒を把って月に問うという中国の漢詩を思い出す。こんな内容だった。

『お月様、あの広い空に、どれほどの年月いたのですか。私は今、あなたにお尋ねしたい。人が月に、登ることはできないが、月は人に、ずっと付いてきてくれる。人は夜、海から登るあなたを見るだけで、明け方に、雲に沈むのを知らない。人々は、昔のあなたを見ることはないが、今のお月様は、大昔から人々を照らしてきた。昔も今も人々は水のように、月を眺めては去っていく。お月様、一つのお願いがある。私たちが歌を歌い、酒を飲んでいる間は、どうかあなたの光で、照らしてくれまいか』

陽菜が屈託のない表情で微笑むたびに、僕は胸の奥が痛む。それはあまりにも残酷な、そんな未来が待ち受けているからだ。僕の命がもう数ヶ月もないことを陽菜が知ったら、どう思うだろう。僕らはずっと一緒にいた。それが当たり前だった、そんな人がいなくなったら、僕だったらどう感じるだろう。いつか訪れる未来。いずれ伝えなければいけない事実を僕はまだ、何も言えずにいる。月は僕らを、草花のように芽を出して明日には飛び去ってしまうような、そんな僕らを見て何を思うのだろう。どうか陽菜が、明日もその明日も笑顔でいられるように、その光で照らしていてください。まだ月の出てない空を見上げて、そう思ったのだ。陽菜が来てから僕らは部室に入った。そしていつものように、ぐだぐだと時間を過ごす。

「すごろくの新しいのやろうよ」
「新作があるのかよ」

陽菜はそう言って机に大きな紙を広げた。

「頑張って作ったんだ」
「今度は裏工作してないだろうな」
「大丈夫だよ。今回は人生ゲームだもん」
「余計タチが悪そうだぞ」
「むー、すごく楽しいんだから」

それから陽菜は駒を並べる。人生ゲームではある人はお金持ちになったり、あるいは貧乏になったりして、人生にありそうなことをなぞって遊ぶ。僕はサイコロを振り駒を進めると、小学生になったらしく、もう一度駒を進めると、今度は中学生に成長した。ボードをよく見るとまた何やら書いてある。

「なんだよこれ」
「あはは、悠人は不良になりました」
「陽菜こそ、地味子になってるぞ」
「あ、いつのまに!」

陽菜の駒も中学生だ。僕は再びサイコロを振り、駒を進めた。高校、大学と、あっという間に僕の年を追い越してしまう。

「また書いてあるな、田舎の大学生・・・・・・おい」

陽菜の方も駒を進めてこう言った

「やった、わたしは保育士さんだ」
「こっちは浪人してるぞ」
「どんまい」

陽菜はそう言って、ことことと笑った。僕はさらに駒を進めてから、こう言った。

「内定が決まらないんだが」
「あはは」

次いで再び駒を進める。

「牧場に就職したぞ。毎日、牛に干し草をあげるらしい」
「似合ってる」

陽菜はくすくすと笑う。とても上機嫌な様子だ。それから陽菜はサイコロを振り駒を進める。

「わわ、ヘマして給料減らされちゃった」
「どんまいだぞ、陽菜」

次いで僕の番だ。駒を進めると、別のマスに飛ぶよう指示されている。

「もう転職かよ。せっかく就職できたのに」
「えーどこどこ」
「・・・・・・ハローワーク、って仕事失ってんじゃん!」
「あはは!」

陽菜は笑いすぎて、目に涙を浮かべるほどだ。

「笑うな! これが現実だったら、僕は泣くぞ」

それから僕は、10回もの転職を繰り返した。陽菜の方は何度も減給されたのち、ようやく昇進した。

「やった、お給料で車買えたよ」
「こっちは未だに、自転車通勤だぞ」

そんなこんなで、ゲームは進んで行き、僕の駒は淡い円の上に止まった。ふと、陽菜がじっと僕を見ているような、そんな視線を感じた。文字を読んでみる。

「結婚する、か」

ちらっと陽菜を見る。目が合って、でも陽菜は、すぐに目を逸らした。心なしか彼女の頬は、赤くなったように見える。そんな様子だったので、僕はあえて陽気に、 「っていっても、今は二人しかいないしな」
「・・・・・・」

すると陽菜は、余っていた駒を差し出し、ぷいとそっぽを向いてしまった。なんだ、そういうルールだったか。別にプレイヤー同士でとか、そういうんじゃなくて。ちゃんと相手用の駒があって、そういうふうに作られてるんだな。そりゃそうか。人生ゲームといえば、家族を持ったり孫ができたり、そんなゲームだったな。僕は黙ってそんなことを考えていると、陽菜はおずおずといったふうに口を開いた。

「ゲームじゃなくて、ほんとのわたしだったら・・・・・・わたしの人生だったら、わたしは悠人と、ずっと一緒にいたい」

それはほとんど告白と取れる言葉だった。

「・・・・・・」

僕は自然と口をつぐんでしまう。陽菜も黙って自分の駒をいじっている。しばらくの沈黙。もともと二人しかいない。二人が黙れば、静寂しかない。うつむく彼女を見て、僕はまたチクリと胸が痛み、だんだん気まずくなって。でも、このままじゃだめだ。いつか言わなきゃ。いつか。いつかって、いつだ? 静かな葛藤の中、僕の口は、僕の意思に逆らって、無情な言葉で、静寂を破ったのだった。

「一緒にはいられない」
「・・・・・・どうして? わたしのこと、嫌いなの」

僕は彼女の顔を直視できずにでもその声は震えていて、ああそうか。この胸の痛みは、罪悪感っていうんだと、初めて気づいた。僕は答えてこう言った。

「嫌いじゃないよ。そうじゃなくて、ただ、ずっと一緒にはいられないんだ」

僕はそう言って顔を上げた。・・・・・・泣いているのかと思った。でも陽菜は、ただまっすぐに僕を見つめて、怒っているのか、悲しんでいるのか。あるいは戸惑っているのか。なんともとれない表情で、僕を見ていた。陽菜はこう言った。

「私、知ってるよ。悠人が病気なこと。永くは生きられないこと。知ってるよ」
「!」

僕は驚いて言葉を失う。

「でもね、それでも私は、悠人と、ずっと一緒にいたいって思う。そう思う気持ちに嘘はつきたくないの。私は悠人のこと、好きだよ。好き。でも、こんなにわたしは、近くにいたいのに、悠人はそう思ってくれない」
「ちがう」

僕は声を絞り出した。続けてこう言う。

「そうじゃないんだ。僕はただ陽菜に笑っていてほしくて、幸せになってほしくて・・・」

僕がそこまで言うと陽菜は遮るように、訴えるようにこう言った。

「わたしが幸せなのは、悠人が側にいるからだよ。どうして分からないの? わたしは二人で幸せになりたいのに」

心が刺されるように感じ、僕は声を荒げてしまう。

「それができないから、僕は悩んでるんだろ!」

それに反応して、陽菜の方がびくっと震える。自分でも子供じみた八つ当たりだと思う。でも自分を抑えることができなかった。

「病気なのは僕だ、陽菜じゃない。辛くて苦しくて、悩んで考えて。せめて迷惑かけないようにって、一人になろうとしてるのに。なのになんだよ、なんで一人にしてくれないんだよ!」
「うそつき!」

陽菜は叫んだ。

「ずっと一緒にいようねって、子供の時に約束したくせに!悠人がそう言ったのに!」
「あの頃は知らなかったんだよ。病気のことも、なにもかも」

僕がそうつぶやくと、陽菜は瞳をまっすぐに向けて、すがるような、怯えたような表情で、こう尋ねた。

「・・・・・・じゃあ、病気のことを知ってたら、ずっと一緒にいようって、思わなかった?」
「・・・・・・」

すぐに答えれなかった。そして、それが僕の返事になった。陽菜の表情を強張らせて、なんとか保っていたものが崩れて、

「悠人のばかっ!」

と大声で叫んで、机が大きく揺れるのも気づかず、カバンも持たずに、部室から出ようとした。僕はとっさに陽菜の手をつかんだけれど、彼女はそれを振りほどいて走り去ってしまった。そして僕はようやく気づいたのだった。薄暗い放課後に、背を向けて走り去る陽菜の震える肩を見て、頬から雫が零れ落ちるのを見て、こんなところになってはじめて気づいたのだ。苦しんでいるのは、自分だけじゃなかったんだ、と。次の日の朝。登校する陽菜の顔を見て僕は唖然とした。

「・・・・・・」

昨晩、泣きはらしたのだろうか、目元が腫れていて、元気がない。クマができていて、明らかに寝不足だ。

「・・・・・・」

陽菜は視線を合わせようとせず、お互い無言で歩いた。僕は彼女の体調が心配だったが、その重々しい雰囲気の中で、何も言えないまま、学校に着いた。教室に向かおうとする陽菜に、僕は口を開いてこう言った。

「天体観測の許可とれたから。明日の夜にやるから。陽菜ももし来れそうだったら・・・」

僕がそこまで言うと、陽菜は少しだけたち止まった。

「・・・・・・」

それからなにも答えずに教室の方へ去っていった。僕もまた、自分の教室へ向かうのだった。放課後になっても、部活に陽菜は来なかった。このまま彼女は、二度とここには来ないんじゃないか。そんな考えさえ浮かぶ。僕は空を見上げて、まだ顔見せない月にこう問い掛けた。僕らの痛みも悩みもそれはあってないようなもので、気の遠くなるほど長い日々からすれば、人間の苦しみなんて一瞬で、僕の命も人の命も対して変わらなくて、なのになんで、なんでこんなに辛いんだろう、と。答えの出ない問いかけは、僕の心を虚しくするだけで、ただ、僕の周りで、夕方にはそよ風が、夜には静寂が、語りかけるているようだった。天体観測の夜になった。僕は一人で天文台に来ていた。陽菜はまだ来ていない。今思い出したが、何時に集合かは言わなかったな。いや、それを言ったところでここには来なかっただろうか。見上げる星空に多くの星が輝く。どれくらいだろう、僕はしばらくの間、ベンチに寝転んで、なにも考えずにその瞬きを見ていた。さすがに春の夜はまだ寒く、厚着をしてきたとはいえ肌寒さを感じる。もう帰ろうと思った。そのときだ。タッタッと足音が聞こえて、その方の見ると暗闇の奥から、誰かがこっちに向かってくるようだった。

「悠人! これ見て!」

陽菜が息を切らして走ってきた。僕は戸惑ってこう尋ねた。

「陽菜どうして」

彼女は僕の言葉を遮るように続けてこう言った。

「いいからこれ、これをちゃんと見て」

言われて目をこらすと、陽菜の手にはたくさんの書類が握られている。何枚か受け取るとそれは役所や病院のパンフレットだった。

「どうしたんだよ、こんなにいっぱい」

陽菜は答えて言った。

「悠人、病院はこんなにいっぱいあるんだよ」

それから陽菜は言葉を続けてこう訴えた。

「いろんな施設もお医者さんも、いっぱいいるんだよ。病気がぜったい治らないなんてどうして言い切れるの!」
「!」

陽菜は目にクマを作ってまでこれを集めていたのか。病院においてあるパンフレットや病院のサイトを印刷したようなものが、何枚も混ざっていて、彼女はこれを陽菜は調べていたのか。

「ろくに寝ないで、こんなことを」

僕がそうつぶやくと陽菜はせきを切ったようにこう言った。

「一人で勝手にあきらめないでよ、ばかぁ」

そういう陽菜の目からは、また大粒の涙が零れ落ちる。それは月に照らされて星のように反射した。僕は素直に謝ってこう言った。

「ごめん陽菜、僕が間違ってた」

それから泣きじゃくる陽菜の頭に、そっと手を乗せた。

「悠人?」

僕を見上げる陽菜に続けてこう言った。

「勝手にあきらめて、ほんとにごめん。もうあきらめない。治してくれる病院も探す。だからごめん。許してくれるかな」
「・・・・・・うん」
「ありがとう」

僕はそう言って星空を見上げた。陽菜も同じようにする。それから僕は一応こう付け加えた。

「でもな、頑張ってみるけど、どうなるかは分からないぞ」
「きっと大丈夫だよ」

陽菜はそう言って笑った。きっと何も考えていない、何の根拠もない言葉だ。でも今の僕には、その言葉だけで十分だった。

「なんか、そんな気がしてきた」

僕もそう言って笑った。月の光は、昔も今も僕たちを、照らしてくれている。そして。3年後のある日のこと。

「やっぱりこの辺の桜は、いつ見てもすごいな」
「この辺も覚えてるの?」
「まあな、海外に行ったって言っても、たった三年だし」
「本当によかったよね。優秀なお医者さん見つかって」
「こういうのを、奇跡っていうのかな」
「悠人が頑張ったからだよ」
「でもきっかけは、陽菜の言葉だよ」
「?」
「覚えてないだろ。勝手にあきめるなって言ったんだよ」

僕は三年の間、海外の病院に行っていた。きっかけは陽菜のことばだった。陽菜がまだあきらめていないのに、僕が自分を見捨ててしまうのはなんだか情けないと思った。僕は決意していろんな医療機関に出向いた。その病気はまだよく知られていない、難しいものだったけれど、もしかしたら一人くらいは直せる医者がいるかもしれない。そう前向きに考えるようにして、いろんな人に話を聞いたのだ。そうしていたら、ついに医者が見つかったのだ。その病気の手術をしたことのある、外国のお医者さんだった。すぐに手術しましょうということになった。僕はそのため、三年の間、日本から離れる必要があった。そして手術は成功し、長いリハビリを終えて、今日。またこうして陽菜と歩いている。陽菜はふと思い出したように、僕にこう言った。

「まだ言ってなかったね。おかえり、悠人」
「ただいま」

僕も答えて微笑んだ。それから僕は、加えてこう行った。

「言ってなかったといえば、僕も陽菜に言ってなかったことがあるんだ」
「?」

陽菜は分かってないようだった。

「僕の好きな人だよ」
「・・・・・・え? い、いいよ! もうその話は。私は悠人が元気で、それだけで嬉しいんだよ」

彼女は遠慮がちに言った。陽菜にしてはめずらしい。こういう話をしたがるのは、いつだって陽菜だったから。それから彼女はもじもじとこう付け加える。

「だめだったら、その、困るから・・・・・・」

それで、僕はこう尋ねた。

「僕の好きな人、知らないの?」

陽菜はそれを聞いて、 目を丸くしてこう言った。

「え! 私の知ってる人なの? 待って、それこそ心の準備がまだ」

陽菜は小動物みたいに身をすくめている。僕は大きくため息をついた。ここまで鈍感な女子は珍しい。あれほど僕に好意を見せて、僕のことを見ていて、どうして気づかないんだろう。でも。そうだよな、言わなきゃ伝わらないよな。僕はまっすぐ陽菜を見た。それから口を開いてこう言う。

「小さい頃からずうっっと、佐藤陽菜っていう女の子のことが好きだったんだよ」
「!!!」

陽菜は目を見開いて、口をパクパクさせている。生まれてはじめて知った。そんな様子だった。

「悠人が? わたしを? 小さい頃から?」
「うん」
「ありえないよ、だって悠人を好きなのはいつだってわたしだけで、でもそれはずっとわたしの片想いで、ずっとずっとそうだって。急に好きだって言われたって」

陽菜は混乱していた。だから僕は譲歩することにした。

「分かったわかった。それは後でゆっくり説明するから。今は一緒に桜を見ようよ。三年ぶりなんだ」
「う、うん」

ぎこちない様子の彼女を見て、僕は笑った。

「あー、いま笑ったでしょ!」
「笑ってないって」

笑ったけど、おかしくて笑ったとか、そういうことじゃなく。こうやってまた、この道を歩いている。そんな普通のあたりまえの日常が、かけがえのないものなのだと、そう思えて、嬉しかったのだ。

箸でコバエを捕まえたら恋が始まっていた #

僕の名前は橋田ハシオ。なんの取り柄もない。頭は悪いし、音痴だし、運動も苦手。だけど、ひとつだけ特技がある。それは『箸を上手に使える』ことだ。

小学4年生の夏。6月の梅雨が明け、夏休みももうすぐというころ。まだ湿気の残る教室に、一匹のコバエが入り込んできた。ちょうど昼食の時間だったから、クラスメイトはハエを追い払おうと騒いでいた。みんな、使命感があって偉いと思う。僕にはそういうところがないから、少し羨ましい。

「はぁ」

ため息をつきながら、僕は弁当を机に出した。僕の通う学校は、一週間に1日だけ、弁当を持参しないといけない日がある。それが今日、『お弁当の日』だ。僕の弁当は、今朝コンビニで買った三色そぼろ弁当。本当はみんなみたいに、手作り弁当が良かったけれど、僕のお母さんは忙しいから、しょうがない。

隣の席の、倉本ミノリちゃんの弁当をチラリと見る。ピンク色の弁当箱に、丁寧に盛り付けされた、ご飯におかず。いいな、と思う。ミノリちゃんは手を合わせて、小さな声で「いただきます」と言った。食事の挨拶を欠かしたことは見たことがない。今日みたいに、騒がしいときでも。

真面目でいい子だ。僕も見習わないといけない。手を合わせて、食事の挨拶を口にしようとする。そのとき。

「きゃっ」

ミノリちゃんは小さな悲鳴をあげた。教室を飛び回っていたコバエが近づいてきたからだ。コバエは執拗に顔の前を飛び回る。何度追い払っても、ミノリちゃんから離れない。そんな様子をみて、クラスメイトの女の子たちがクスクスと笑い出した。

「見てよ、倉本さんハエに懐かれてるぅ」
「え〜、それってぇ〜、そういうことぉ〜?」
「ウケる〜」

ハエが飛び回るのが、そんなに面白いのかな。ときどき、クラスメイトの女の子たちは、ミノリちゃんのことを笑う。どこがそんなに笑えるのだろう。きっと僕の知らない、ミノリちゃんの魅力に気づいているのだと思う。僕もみんなを笑顔にできる人になりたいな。でも、ミノリちゃんが笑っていないのはどうしてだろう。

「っ」

ミノリちゃんは息を飲む。ふいに、コバエがミノリちゃんのお弁当にとまりそうになったのだ。その瞬間。

「・・・・・・え?」

ミノリちゃんは目を丸くして、一点を見つめていた。そこには僕が突き出した、割り箸。そして割り箸につままれた、コバエ。僕は割り箸をパキッと割ると同時に、ミノリちゃんのお弁当の上に腕を突き出し、コバエを捕まえたのだ。箸を上手に使えるだけの、つまらない特技。やっぱり格好がつかない。僕は少しがっかりしながら、コバエを窓の外に逃がした。

「・・・・・・すごい」

ミノリちゃんが小さくつぶやく。たぶん、お弁当のことだろう。お母さんが早起きして作ってくれたんだろうな。できれば僕のお母さんも・・・と思ったところで、頭を振る。お母さんは忙しいんだ。500円を握らせてくれただけ、感謝しないと。

そうして自分の弁当に向き直り、気づく。コバエをつまんだ箸じゃ、食べられないじゃないか。どうしよう。手で食べればいいのかな。

「・・・・・あの・・・・・・これ」

困っていると、ミノリちゃんがおずおずといった様子で、箸を差し出してくれた。

「いいの?」
「・・・・・・うん」

僕は感激した。箸がなければ食べられないのに、ミノリちゃんは箸を貸してくれた。そうか。ミノリちゃんは、すごく優しい子なんだ。もしかすると、予備の箸を持っているのかもしれない。だとすると、すごく賢い子だ。僕も見習わないと。今度からは、予備の箸を持ってくることにしよう。ミノリちゃんみたいに、困っている誰かに貸せるように。

僕は貸してもらった箸でご飯を食べ始めた。ピンク色の可愛い箸だ。そんな僕の様子を見て、またクラスメイトの女の子たちが笑い出す。

「倉本さんのを使うなんて、ないよねぇ」
「そうそう、洗って使えばいいのに」
「不潔ぅ〜」

僕はハッとする。どうして気づかなかったんだろう。僕の割り箸を、洗って使えばよかったんじゃないか。ちゃんと石鹸で洗って、消毒もして。きっとそのことを、彼女たちは指摘してくれたんだと思う。本当にみんなは頭がいい。

そして、ミノリちゃんに申し訳なく感じた。だから、彼女たちには感謝を、ミノリちゃんには謝罪を伝えよう。彼女たちのように、直接ではなく、少しだけ聞こえるくらいの声で言う。

「ありがとう・・・あと、ごめんね」

ミノリちゃんはきょとんとして、それからしばらくして頬を朱色に染めた。どうしたんだろう。謝罪はいらない、ということかもしれない。だとしたら、それはとても謙虚で立派ことだ。僕はパクパクと弁当を食べ始める。

「・・・・・・」

チラ、チラとミノリちゃんがこっちを見ている。もしかして、予備は持っていなかったのだろうか。そんなはずは・・・。でも、もしそうだとしたら、ミノリちゃんを困らせちゃいけない。できるだけ急いでご飯を食べる。そぼろも米粒も残さず食べる。僕は今だけは、箸を上手に使えてよかったと思った。

「ふぅー」

無事に弁当を完食した。さて、どうやって箸を返そう。感謝と尊敬を込めてお礼を言いたいけれど、良い言葉が思いつかない。それに女の子たちの使う言葉は、よくわからない。なにかを略しているのだと思うのだけれど、それがどんな意味なのか、バカな僕には分からないのだ。

でも。ひとつだけ僕でも知ってる言葉を思い出した。女の子たちがとてもよく使う、わかりやすい言葉を。

「ミノリちゃんありがとう、“かわいい”箸だね」 「・・・・・・っ」

ミノリちゃんの顔がさらに赤くなる。受け取った箸をじっと見つめていたから、きっとミノリちゃんも自分の箸をすごく気に入っているんだろう。僕は選んだ言葉が間違っていなかったことにホッとした。ミノリちゃんは、意を決したように、ご飯を食べ始める。顔を真っ赤にしながら。

それを見ていたクラスメイトの女の子たちが、またなにか盛り上がり始めた。賑やかで良い教室だと思った。

中学1年生になった。それでも僕、橋田ハシオは相変わらずだった。成長すれば、なにかが変わると思っていた。でも、特技すら変わらなかった。僕にできること、それは。箸を上手に使えること。それだけだ。

でも周りは変わっていった。賑やかだった女の子たちのグループが変わった。リーダーだった女の子がグループから外れた。二宮アリサという女の子だ。彼女は男の子たちと一緒にいることが多くなった。僕はあの賑やかさが好きだったから、少し残念だった。でも、誰とでも仲良くなれるアリサちゃんは、すごい子だと思った。

それに対して、僕はどうだろう。学校の昼休み、僕はひとり寂しく校庭をぶらついていた。するとアリサちゃんたちが旧校舎の方に向かうのが見えたので、少しだけ付いて行ってみることにした。こんな会話が聞こえてくる。

「ちょっとぉ、ほどほどにしてよね」
「大丈夫だって、ちゃんと武器もあるし」
「なんたって俺たちはヒーローなんだから」

なんと、アリサちゃんたちはヒーローだったらしい。驚きの真実に衝撃を受ける。平凡な僕とは大違いだ。それにしてもアリサちゃんは、男の子たちの中にいても、みんなをよくまとめているようだった。やっぱりすごい子だなと思う。

会話に耳を傾けていると、アリサちゃんたちはどうやら、スズメバチの駆除をするらしい。ハチを自分たちで駆除するだなんて、まさにヒーローの発想だ。思わず感心してしまう。僕なら大人に任せてしまうだろう。どうやってスズメバチを駆除するのだろう。気になって、こっそり覗いてみると、男の子が武器の実演をしていた。

「これをこうやって・・・」
「うおっ!すげー!」
「ちょっとこれ、本当に大丈夫なの?ねぇ!」

スプレーのガスにライターで火をつけ、小型の火炎放射器にしているようだった。男の子たちはやる気に満ちている。でも、アリサちゃんは心配しているようだ。アリサちゃんが心配しているということは、成功しない可能性があるのかもしれない。でもヒーローは敵から逃げはしない。その証拠に、アリサちゃんは渋々ながら、男の子たちに付いて行っている。先陣を切らないところをみると、サポートに徹するようだ。さすがだと思ってしまう。状況に応じて役を変える。簡単にできることじゃない。僕はアリサちゃんを、ますます尊敬してしまう。

しばらくして、ついにヒーローたちは敵と対峙することになった。スズメバチの巣は思ったより、ずっと大きかった。それでも構わず男の子は果敢に炎をぶつける。驚き惑う敵たち。でも、敵も強かった。

「やべ!にげろ!」
「ちくしょう!ちくしょう!」
「ちょっ、まって!きゃあ!」

スズメバチに追われて、一目散に逃げる男の子たち。アリサちゃんは小石につまずいて転んでしまった。どんどん敵に追い詰められる。

「こ、来ないでぇっ!」

ポーチをぶんぶん振り回して必死に抵抗をしていた。しかし非情にもスズメバチは華麗に避ける。そしてアリサちゃんに針を突き立てようとした。その刹那。

「え!?」

僕の”予備”の箸がスズメバチを捕まえていた。アリサちゃんは目を大きく見開いている。彼女の目に、僕はさぞ滑稽に映っていることだろう。僕が使っているのは、ただの箸だ。全然かっこよくない。

「はぁ」

僕はため息をつきながら、迫ってくるスズメバチたちを、一匹、二匹、三匹と捕獲していった。そして男の子たちが使う予定だったであろう、落としていった入れ物にスズメバチを放り込む。

その間、アリサちゃんは惚けたように僕を見ていた。箸を使う僕を見て、呆れているのだろう。最後の一匹を捕まえた時。僕の口から出たのは、憧れのこもった言葉だった。

「アリサちゃんはかっこいいね」

虚をつかれたような顔をするアリサちゃん。それから、ふいにそっぽを向いて呟いた。

「ううん。私なんかより、ずっと・・・その・・・」

アリサちゃんは謙遜しているようだった。たぶん、自分よりもさっきの男の子たちの方がかっこいいと言っているのだろう。彼女がそう言うのなら、きっとそうなのだ。

「・・・ごめん。あたし止めらんなかった」

ポツリとこぼれた言葉。

「アイツら連れて、先生に謝ってくる。それから・・・」
「なら僕も一緒に謝りにいくよ」
「はぁ!?」

アリサちゃんは素っ頓狂な声をあげた。彼女はきっと、グループの失敗を自分の失態のように感じられる人なんだ。そういうところは小学生のころから変わっていない。僕はやっぱり、ほかの男の子たちよりも、アリサちゃんの方がかっこいいと思った。アリサちゃんはみんなのリーダーだ。だからこそ、アリサちゃんだけに背負わせちゃダメだ。

「ほら、早く行こうよ」
「う、うん・・・」

僕は手を伸ばし、アリサちゃんを立ち上がらせる。彼女は少し遠慮しているようだった。たぶん、僕を巻き込みたくないのだろう。みんなのために、ここまで自分を犠牲にできるなんて。やっぱりすごい。僕もアリサちゃんみたいになりたいな。でも、たぶん、なれないんだろうな。

少しだけ切なくなりながら、ほかの男の子たちも連れて、職員室に向かった。しっかり怒られた。でも、アリサちゃんが僕を庇って色々と言ってくれたおかげで、そんなに怒られなかった。お礼にはならないかもしれないけれど、僕も、アリサちゃんがみんなを心配していたことをきちんと伝えた。

そして放課後になった。バカな僕は、ホームルームが終わったあと、少しだけ、うたた寝してしまった。もう教室には誰も残っていない。

「あ」

廊下に出ると、アリサちゃんがいた。彼女は僕を見るなり、声をかける。

「あの、さ」

西日が当たっているせいか、耳まで茜色に染まっているように見える。

「その、さ」

彼女にしては珍しく歯切れが悪い。言いにくいことを言おうとしているのだろうか。もしかして・・・僕の悪口とか? だったらショックだ。そんな覚悟をしていると、彼女は手を握りしめて宣言した。

「・・・あたし、がんばるからっ!」

もう十分がんばってるじゃないか。でも、それで満足しないのがアリサちゃんなんだよね。すごいな。

「いつか、ちゃんと、勇気を出すからっ!」

振り絞るように言って、それから走り去っていった。きっとヒーロー活動のことだろう。アリサちゃんには、アリサちゃんにしかできないことを頑張っているんだ。ますます憧れが大きくなってしまう。

それに対して、僕はどうだろう。僕にしかできないことってなんだろう。箸を上手に使うこと? そんな間抜けな。でも。アリサちゃんの影響だろうか。もう少し真剣に向き合ってもいいかな、と思った。

「ハシオくん、聞いてる?」

僕、橋田ハシオは高校1年生になった。高校生になっても、僕は僕のままだった。成績は下の下。運動も苦手。特技はない。いや、ひとつだけある。箸を上手に使うことだ。泣けてくる。

そんな情けない僕は、情けなくも先生に怒られていた。先生の名前は、西谷ハルカ先生。今年赴任してきたばかりの新人教師の女性で、熱意にあふれていた。これまで見過ごされていた僕の怠慢も、ついにツケを払うときがやってきたということだろう。

どうしても解けない問題があって、その宿題がいつまでたっても終わらない。終わらないので宿題を提出できない。今までは、できないことが許されてきた。でもハルカ先生は許してくれない。厳しい先生だ。でも、今の僕には必要な先生だと思っている。僕は現状に甘えてしまうから。そして今日もダメな僕を叱咤してくれている。

「こら、ちゃんとこっちを向いて聞きなさい」
「はい」

しかも、ここは教室で、ホームルーム中だ。クラスメイトから見られている中での説教。逃げようにも逃げられない。厳しい。でもそれは、なかなかできることじゃないと思う。

「ハシオくんは真面目に取り組めばできる子なんだから、もっと真剣に打ち込みなさい」
「はい」

僕みたいなダメなやつに、ここまで真剣に向き合ってくれた先生は初めてだ。だから、この厳しさは少し辛いけど、嬉しくも思う。きっといつか自分の糧になるだろうから。そんなことを思いながら説教を聞いていると、突然、教室のドアが荒々しく蹴飛ばされる。

「貴様ら、全員そこを動くな!」

なんと武装した男たちが襲撃してきたのだ。少なくとも一人の男は拳銃を持っている。

「キャアアァァーーー!!」

教室に響き渡る生徒たちの絶叫。パァンと耳をつんざくような銃声が鳴り響く。

「動くなっつってんだろうがっ!」

男たちの怒鳴り声が恐怖を増長させる。天井に空いた穴は、その拳銃が本物であることを物語っていた。生徒たちは皆、怯えていた。しかし、動けば撃たれる。突如として訪れた絶望に、教室そのものが暗闇に変わってしまったかのようにすら感じられた。そんな中、ハルカ先生だけは違った。

「みんな落ち着いて!逆らっちゃダメ!」

ハルカ先生は勇敢にも、冷静に対処しようとしていた。僕は場違いながらも、そんな勇気に心が震えた。彼女は額に冷や汗を滲ませながらも、交渉を進める。

「あなたたちの要求は何?もし生徒たちに手を出したりしたら・・・」
「なんだぁ?うるせぇ女だなぁ?」

だが、荒々しい声が、すっと氷点下まで下がる。

「撃つぞ?」 「っ」

さすがのハルカ先生も怯む。そして、男は人質を要求した。

「おいお前、こっちに来い」

どうやら人質は僕のようだ。僕は人質としてうまく利用されてしまうのか。そんなことになるぐらいなら、いっそ。

「やめなさい!!!生徒に手を出すのはやめなさい!!!」

それでもハルカ先生は抗った。強い。こんなに強い意志を持つ人は初めて出会った。どこか達観していた僕の心が、引き寄せられる。この人は、本当に、真剣に、先生なんだ。

「警告はしたよなァ?」

無情にも銃口は先生に向けられる。ゆっくりと引き金が引かれ。弾薬の弾ける音が響き。 教室にいる誰もが目を疑った。

「なん・・・だと・・・!?」

先生の目の前、10センチのところに突き出された、銀色の箸。それが弾を完全に捕らえていた。摩擦熱で少しの煙が登る。しかし、磨り減ったのは箸の方ではなく、弾の方だ。指の力を少し抜くと、ぽとりと弾が床に落ちる。

「・・・ハシオ・・・くん?」

僕は先生の言葉に反応せず、ただまっすぐに銃口を見つめた。

「クソがッ!!!」

パァン!!!

パァン!!!

と、何度も狙撃されるが、すべて箸につままれ、止められる。弾の速度に合わせた、目にも留まらぬ箸の絶技。ハルカ先生もクラスメイトも息をするのを忘れるくらい、その光景を呆然と見守っていた。

そして、ついに。

「チッ、クソッ!!!」

弾切れだ。男はヤケクソになって、僕を責め立てる。

「何がどうなってやがる!!!お前、何をした!!!」
「この箸、実は合金なんだよね」
「そういう意味じゃねぇ!!!」
「僕なりに”真剣に向き合った”んだ」
「何なんだよお前!!!」
「僕はハルカ先生と大事な時間を過ごしていたんだ。邪魔しないでほしい」
「だから何なんだよお前!!!」
「僕は多少、怒ってる」

僕がそういうと、狂乱していた男が急に冷静になり、かと思うと愉快そうに笑い出した。

「ハハハ!!!そういうことかよ!!!なら話は早ぇ!!!」

それから、後ろに控えていた男たちに指示を出す。

「やれ」

だが。もう遅い。騒ぎを聞きつけた屈強な者たちが彼らを取り囲んでいた。力強い運動部の部長たち、大柄な体育教師、防犯用の装備で武装した他の先生たち。そんな強い人たちに囲まれたら、襲撃者たちも成すすべがない。僕は憧れた。かっこいい。あんな風になりたかったな、と。

そんな時、ちらっと視線が合った。アリサちゃんだった。彼女は親指を立てていた。心強い味方を呼んでくれたのは、アリサちゃんだったのだろう。やっぱりアリサちゃんはかっこいい。

それからまもなく、パトカーのサイレンの音が近づいてくる。また誰かと視線が合った。 ミノリちゃんだ。ミノリちゃんはコクンと小さく頷いた。どうやらミノリちゃんが警察を呼んでくれたらしい。どこまでも謙虚で、頼れる女の子だ。

ここまでくればもう、襲撃した男たちに勝機はなかった。彼らの目的はわからなかったが、お縄についたことで、教室に安堵した空気が戻ってきた。僕はようやく振り返り、ハルカ先生に声をかけた。

「ハルカ先生」
「・・・・・・は、はいっ!」

ハルカ先生は半ば放心していた。先生の勇敢さにばかり目を奪われていたが、先生も新人教師。それも教師という立場を除けば、ひとりの女性でしかない。本当は怖くてたまらなかったのだろう。それなのにひとりで立ち向かったのだから、本当にすごい。襲撃はたしかにびっくりした。でも、僕には、もっと大事なことがあった。

「宿題はどうすればいいですか?」
「え!? えええ!?」
「解き方がどうしてもわからないんです。真剣に取り組んではいるんですが」
「あっ・・・・・・」

ハルカ先生はどういうわけか目を潤ませて、それから照れたような、恥ずかしそうな笑顔を作った。彼女は僕の手を優しく包むように握った。それから、熱っぽく、こう言った。

「明日から放課後、職員室にいらっしゃい。ゆっくり教えてあげるから、ね?」
「はい」

本当に熱意の溢れる先生だ。僕には箸を上手に使うことしかできない。その他は、できないことばかりだ。でも。この勇敢な先生を見ていると。いつかは乗り越えられるような、そんな気がした。

どうしてこうなった。僕、橋田ハシオは、何も変わらなかった。変わらなかったはずだ。それなのになぜだろう。強盗を捕まえたり、テロを阻止したり、猛獣を手なずけたり、ミサイルを撃ち落としたりしていた。そして今。

「・・・・・・橋田くん、お弁当です」
「ハシオっ!ぜったい無事に帰ってきてよね!」
「先生はハシオくんのことを信じています」

僕を激励してくれるミノリちゃん、アリサちゃん、ハルカ先生。だから、どうしてこうなった。世界の危機だとか、もう意味のわからない次元の話に巻き込まれている。危機のインフレがすごすぎて正直ついていけない。そして、その世界の危機とやらに立ち向かう唯一の武器が・・・箸である。それはない。ぜったいにない。箸で世界を救うとか、ありえない。そのはずなのに。

人が操縦する巨大ロボが装備している武器が、巨大な箸だという事実に目を背けたくなる。僕は操縦席に乗り込み、レーシングカーの椅子のようなシートに腰掛ける。すると一匹、コバエが入り込んでいた。僕はすかさずパシッと箸でつかまえる。それから、搭乗口を少しだけ開けて、逃がしてやる。これくらいでよかったんだけどな。世界の危機というのはよくわからない。救える気なんて全然ない。

でも。真剣に、勇敢に、謙虚にがんばらないとね。ミノリちゃんのように。アリサちゃんのように。ハルカ先生のように。

僕はコックピットから管制塔にメッセージを伝える。そのメッセージは全国に中継されるそうだ。僕は大きく息を吸い込んで。実に間抜けな自己紹介をする。

特技は箸を上手に使うことです、と。

後日、別れた。 #

登場人物

  • 小坂小春(こさかこはる):主人公
  • 雨野沙織(あまのさおり):主人公の元ライバル、今は友達
  • 黒川肇(くろかわはじめ):主人公の彼氏
  • 柳葉恭平(やなぎばきょうへい):主人公の幼馴染

私の名前は、小坂小春(こさかこはる)。蛍ヶ丘高校に通っている、高校三年生。二年生の終わり頃に、恋人ができた。クラスメイトの黒川肇(くろかわはじめ)くん。黒川くんは背が高くてカッコよくて、ぶっきらぼうで、でも時々優しい。すごくモテるみたいだったけど、なぜか私のことを好きになってくれて、半年前に告白された。そして私たちは付き合うようになった。

・・・・・・

あれから、もう半年。最初は黒川くんのこと、どっちかっていうと嫌いだった。悪口ばかり言うし、不機嫌そうだし、いつも上から目線だし。よくケンカになったし、よく泣かされた。でも、そうやって衝突するうちに、少しずつ気になる存在になっていくのがわかった。泣いているとそっぽを向いて「悪かったな」と言うところとか、私が人混みで困っていると手をぐいっと引っ張ってくれるところとか。そういう、ちょっとした優しさに惹かれるようになっていた。だから黒川くんが「お前が好きだ」と言ってくれたとき、私も黒川くんのことが好きなんだって、やっと気づいた。

付き合い始めたばかりの頃は、一緒にいるだけで楽しかった。会うたびに、やっぱりこの人のことが好きなんだっていう気持ちが強くなった。黒川くんのそっけない態度も、ただ照れているんだと思った。でも、黒川くんはどこかいつも、そう、不機嫌そうだった。

学校ですれ違ったときのことだ。

「あ、黒川くん!」 「・・・・・・」

黒川くんはクラスメイトとの会話に夢中で、私に対しては一瞥しただけだった。何か悪いことしたかな・・・。私は心配になって、もう一度声をかけてみる。

「あの、黒川くん・・・!」 「ちっ」

彼は軽く舌打ちをして、ズボンのポケットに手を突っ込んだまま、ようやく私の方に来てくれた。

「あのな、小坂」
「・・・あの、お話し中ごめんね、でも」
「会うたびに挨拶とか、そういうのやめろって、言ってるだろ」
「でも・・・私たち付き合ってるんだし・・・」
「俺はな、めんどくさい女は嫌いなんだよ」
「う・・・・・・ごめん」

私はただ謝るしかなかった。

「・・・ったく」

黒川くんはそう呟くと、不機嫌そうに去って言った。

ショッピングに行ったときのこと。

「ねえ黒川くん、次、あのお店に行こうよ」
「あー?」
「あの、私、あのお店が見たいな・・・なんて」
「ふーん」

黒川くんはスマホをいじっていた。たぶん、今流行ってるSNSだ、RINEとかTmitterとか、そういうの。友達の投稿とかを見てるのだと思う。以前、何度か黒川くんのIDを聞いたことがあったけど、教えてくれなかった。

『どうせ週末に会うんだし、必要なくね?』
『でも、その、私たち・・・恋人、なんだし、できれば繋がっていたいっていうか』
『今何してるとか、送ってくるんだろ?』
『だって、その・・・気になるし』
『つーか前も言ったじゃん、俺はめんどくさい女は嫌いなんだよ』
『う、うん、わかってる、けど』
『分かったら、無駄に俺の時間を奪おうとするな』
『・・・ごめん』

そんなわけで、黒川くんがSNSで何をしているかは分からずじまい。私は待つことしかできなかった。ようやく黒川くんが、スマホをポケットにしまう。

「あ、あの、黒川くん!」
「なんだよ」
「あのね」

こういうことが何度かあった。

お弁当を作ってあげたときも。

「腹が減って来たな。昼は・・・マッグでいいか」
「黒川くん、そのことなんだけどね」
「あん?」
「今日ね、お弁当作ってきたんだ」
「お前料理できんのかよ?」
「あんまり・・・だけど、頑張ったから!」

私がそう言うと、黒川くんは近くのベンチにどかっと座った。私もその隣に座る。急いでお弁当箱を取り出して、包みを開ける。

「あの、あんまり美味しくないかもしれないけど・・・」
「不味かったら食わねぇ」
「う・・・」

私はハラハラしながら弁当の蓋を開けた。ご飯の上には海苔で作ったパンダさん。それから厚焼き卵、タコさんウィンナー、サラダ。

「んだよこれ、小学生かよ・・・」
「ご、ごめんね、黒川くんの好み、分からなくて・・・」

黒川くんがこれまで食べていたものといえば、学校のパンか、マッグのハンバーガーくらいしか思い浮かばない。

「あの、これお箸、使って」
「・・・・・・」

露骨に嫌な顔をされた。ピンクのファンシーな箸だったからかな。でも、このお弁当箱に入るのは、これくらいしかなかったから。黒川くんは、箸を受け取らずに、厚焼き卵を掴んで食べた。

「・・・甘ぇし、俺には合わねぇ」
「う・・・」
「自分で食えよ」
「で、でも、せっかくだし」
「あーそうだ」

黒川くんはおもむろにスマホを取り出すと、カメラで弁当を撮った。 どこかに投稿する気なのかな・・・。

・・・・・・

後日、その内容が判明した。 クラスメイトの雨野さんに教えてもらったから。 黒川くんのアカウントには、その日、写真付きの投稿がしてあった。

『彼女の手料理(笑』

・・・さすがに傷ついた。

でも。どこかで「自分が悪いんじゃないか」とも思っていた。正直、私は鈍臭いし、成績も良くない。黒川くんみたいに、かっこよくて頭もいい人から見たら、そういう風に感じるのかもしれない。ちゃんと見てもらうには、もっと頑張らなきゃいけないのかな。

そんな風に悩んでいたとき。相談に乗ってくれたのは雨野沙織(あまのさおり)さんだった。

雨野さんはもともと、私にとってはライバルのような存在だった。雨野さんは黒川くんに思いを寄せていたから。でも。私を応援してくれたのも雨野さんだった。ちょっと意地悪なところもあったけど、私の気持ちをちゃんと理解してくれた。

「・・・というわけなんだけど」
「あのね小春」

 私が悩みを打ち明けると、雨野さんは私の目を覗き込んで言った。

「いい? そういう時は正直に気持ちを言わなきゃダメよ」

そうアドバイスしてくれた。私なんかが言っても聞いてくれない、とも思ったけど。でも、彼女の言葉は私に勇気をくれた。

ある時、私は黒川くんに言った。

「もう少し、私のことも見て欲しいの」
「かまってちゃんとか、マジでウザいんだけど」

黒川くんは一蹴した。

一緒にゲームセンターに行ったときのこと。その日はデートだと思っていたけど、黒川くんは違ったみたいで、友達を連れてきて楽しそうにゲームをしていた。放って置かれた気分になった。私は言った。

「仲間外れにされてるみたいに感じるの」
「俺がいるんだから別にいいだろ」

その日も聞いてくれなかった。

でもやっぱり、私に原因があるんじゃないかと思っていた。私ははっきりものを言うことができないから。

「あのね、黒川くん」
「んだよいつもいつも、何して欲しいんだよ、お前は」
「あの・・・その・・・」

場に流されて、言葉を濁して、結局。

「・・・ううん大丈夫、なんでもないの」

そう笑って過ごしてしまうところがあった。

もっとはっきり言わなきゃダメだ。私は黒川くんと直談判することにした。一人では不安だったから、雨野さんに一緒に来てもらった。暗くならないように、明るい雰囲気のファミレスを選んだ。

『黒川くんの接し方に傷ついている』
『もう少し優しく接してもらいたい』
『意見も聞いて欲しい』

そう私は言った。黒川くんがだんだん苛立っているのが伝わってきて、すごくヒヤヒヤした。私が弱気になると、雨野さんがフォローしてくれた。でも。とうとう黒川くんは怒鳴るようにして言った。

「そんなに俺が嫌なら別れればいいだろ!」
「そ、そんなこと言ってないよ! 私はただ、もう少しだけ・・・」

私はうろたえた。嫌いなんて一言も言っていない。むしろ・・・好きなのに。だけど、黒川くんは矢継ぎ早に叫んだ。

「俺が不機嫌だの、ぶっきらぼうだの、言葉が悪いだの! 俺のどこがそんなに気に入らないんだ!!」
「違うよ! そうじゃない・・・そうじゃなくて・・・」
「なにが違うんだ? 黙って聞いてりゃこれだ! 雨野まで連れて来て、言いたい放題言って、つまりそれがお前の本心ってわけだ、違うか?」
「違わないけど・・・そうじゃないの、私は」

はっきり言わなくちゃいけなかった。でも。それは誤解なの。私が言いたいのはそう言うことじゃなくて・・・。

「いや、いい」
「え」

黒川くんは急に声を鎮めて、言った。やっと分かってくれたのかな。でも、私の思いは届かなかった。

「お前とは別れる」
「・・・・・・え」
「お前がそんなに面倒くさい奴だとは思わなかった」

黒川くんは捨て台詞のようにそう言って、店を出て言った。私の言葉も、雨野さんの制止も無意味だった。彼は自分の分のお金だけをテーブルに置いて、去っていった。私は言葉も出せずに、俯いていた。

「・・・・・・」

こんなことって・・・。

・・・黒川くん。

・・・・・・ひどいよ。

数日後。私は心にぽっかり穴が開いたような気持ちのまま過ごしていた。あれから黒川くんからの電話やメールは一切ない。そしてようやく、現状を理解できるようになった。

「私、黒川くんと別れたんだ」

涙が溢れてきた。

それからしばらく経ったある日。バス停で雨野さんと偶然に会った。雨野さんは流れる雲を見ながら言った。

「あのときはさ、うまくフォローできなくてごめんね」
「ううん、雨野さんがいてすごく心強かった」

雨野さんが謝ることなんて、なにもない。心からそう思った。雨野さんは、優しい口調で言った。

「小春さ、黒川と本当に別れたんだね」

やっと受け入れた事実。今でも深い傷跡が残っている。私はただ、頷いた。

「うん・・・・・・」

すると雨野さんは明るく、私の背をポンと叩いて言った。

「ま、元気だしなよ。またすぐにいい人見つかるって」
「そうかな・・・・・・」

正直に言うと、まだそんな気にはなれなかった。失恋の傷は深い。今はまだ、誰かと恋をするなんて考えられなかった。話題を切り替えよう。

「雨野さんの方はどう?」
「どうって、なにが?」
「ほら、恭・・・柳葉くんと付き合ってるって」

柳葉恭平(やなぎばきょうへい)くん。私と彼は幼馴染だ。幼い頃からずっと一緒に成長した。穏やかな人で、いつも優しく私を見守ってくれている、そんな人だった。そして半年前、雨野さんと付き合っているって言う話を耳にした。たしか私が黒川くんと付き合い始めたころのことだ。私はその話を聞いて、とても驚いた。でも、すごく、お似合いだとも思った。とても優しい二人だから。

その後、二人はどうなったんだろう。雨野さんは目を丸くして聞き返してきた。

「・・・は? なにその話。どっから湧いて来たの?」
「え?」

会話がすれ違っている。私はあたふたしながら説明する。

「だ、だってほら、雨野さん、SNSで、『私たち付き合ってまーす』って、顔は出てなかったけれど、あの人、柳葉くんでしょ?」

ちぐはぐな言葉。でも、確かに見たのだ。それで、二人は付き合ってるんだって・・・。

「小春さ、あんまネットの情報鵜呑みにしない方がいいよ。・・・ネタ投稿で釣った私が言うのもなんだけど」
「え、どう言うこと?」

私の知ったこと。雨野さんの言ってること。どこが、どういう風に組み合わさるのだろう。それを考えて・・・・・。それは、つまり。

「だからね、あれ、作り話」
「・・・・・・えぇ!?」
「・・・って言うかほんとに、騙されないでよね、ネタよネタ。はあー、小春が純真すぎて、私いま罪悪感半端ないんですけど」

雨野さんは深いため息をついた。私は事実を飲み込めずにいる。

「本当に・・・付き合ってないの?」
「当たり前っしょ。あの後、柳葉にめっちゃ怒られたし。柳葉の怒った顔初めてみたし、ソッコーで削除させられたし」
「へ、へぇー、そうなんだ・・・」

彼の怒ってる姿、イメージ全然湧かないなぁ。雨野さんは続けてこう言った。

「つかさ、柳葉の好きな人って・・・・・・あ、バス来た。じゃあ、またね。元気だしなよ」
「あ、うん。ありがとう」

二人の会話はここでおしまい。私の乗るバスは次のバスだ。

(そういえば最近、恭くん見ないな・・・)

恭くんと言うのは、柳葉くんのことだ。私と恭くんは幼馴染で、私は彼のことを「恭くん」と呼んでいた。そして彼は私のことを「小春ちゃん」と呼ぶ。

恭くんとはいつも一緒だった。正確には、黒川くんと付き合う前までは、かな。彼はよく私を助けてくれた。幼い頃からずっとそうだった。転んで泣いているときには、絆創膏を貼ってくれた。教科書を忘れて泣きそうだったときも、私に教科書を貸してくれた。クラスメイトにからかわれていたときは、私をかばってくれた。

(いつも助けてくれたんだよね・・・)

放課後や休日、よく一緒に遊んだ。いつも気づいたら、そばにいてくれた。幼稚園、小学校、中学校、高校とずっと続いてきた仲。ずっと続くものと思っていた。それが、最近ぱたりと会わなくなった。どうしてだろう。そして、それはすぐにわかった。

(恭くん、予備校に通っているんだ・・・)

これは雨野さん情報だ。大学受験の予備校。いわゆる現役生予備校。高校に通いながら、放課後や休日に勉強する。だから放課後も休日も、会わなかった。

「大学か・・・」

ふとそんな言葉が漏れた。気がつけば、もう高校3年生になっていた。周りの人たちは、自分の進路に向けて進み出していた。私が黒川くんと付き合ったり別れたり傷ついたりしているうちに・・・。

(私は、どうしたいんだろう)

将来のことなんて、真面目に考えたことはなかったから。

気分転換にと、高校の中庭でお昼を食べていると。

「小春ちゃん!」

懐かしい声がした。二階の窓から手を振っている人がいる。恭くんだ。彼は『ちょっと待ってて』と言って、それから急いだ様子で中庭まで降りて来た。

「小春ちゃん、なんか久しぶりだね」
「うん、そうだね」

 私が頷くと、恭くんは少し気まずそうに言った。

「あの、聞いたよ。黒川のこと・・・」
「あ・・・うん」

もちろん、黒川くんと私が別れたという話だ。恭くんは、私たちのことを応援してくれていたから、心配してくれたのだと思う。

「・・・なんて言えばわからないけど、乗り越えられそう?」

一生懸命言葉を選んでくれてる優しさが、嬉しい。だからこそ、心配かけたくない。

「・・・・・・うん、なんとか、えへへ」
「そっか、よかった」

無理して笑ったけれど、多分、恭くんは気づいている。私がまだ、引きずっていることに。

「でも、つらいことがあったら、なんでも言ってね」

 ほら、ね。

「うん・・・・・ありがと」

なんだろう。心の中があったかくなる、この感じ。傷ついていたところに、優しくされたからかな。ううん、違う。きっと私は、ずっと前からこの気持ちを持っていたんだ。小さい頃から、なんとなく私に寄り添っていた、この気持ち。そして。この気持ちの名前を、私は知っている気がした。

でも。一度失敗したことだから、臆病になる。だから、私は話題を逸らした。

「私ね、勘違いしてた」
「うん」

私が話すと、恭くんはちゃんと聞いてくれる。今はただ、それが嬉しい。

「恭くんと、雨野さんが付き合ってるって」
「うん・・・・・・へ!?」

恭くんは素っ頓狂な声を上げた。予想外の話題だったらしい。彼は急にあたふたしだす。

「そ、それはないよ!! だって僕は、ずっと小春ちゃんのことが! あ、いや、その・・・・・・」

 そうかと思うと、急に黙ってしまって。

「・・・・・・その、なに?」
「その、僕は・・・ああ待って、なし、なし! これ、なし! ・・・こうゆうのは僕の役回りじゃないってば」

そして、顔を真っ赤にして額を手で覆ってしまう。一体なにが、彼をそんなに動揺させているんだろう。

「くすくす」

 私は、その様子がおかしくて吹き出してしまう。

「笑わないでよ、小春ちゃん・・・」
「でも・・・くすくす」

我慢すればするほど、おかしくて。涙まで出て来て。私は目尻を指で拭う。でもね、違うよ。たぶんね、嬉しいんだ。またこうして、恭くんと他愛もない話ができることが。

「あーーーもう!」
「うん、ごめんね」

私が素直に謝ると、恭くんは手を振ってすぐにフォローする。

「あ、いいんだよ。べつに怒ったわけじゃないから」
「でも・・・」

怒った顔も、見てみたいかも。なんて。言ったら困るかな。

・・・・・・

「怒った顔も・・・見てみたいかも」

・・・言ってしまった。

「っ・・・!」

恭くんはさらに顔を赤くして、空を仰いだ。

それから時々、恭くんと会うことが増えた。たぶん、私のことを心配してくれてるんだと思う。まだ、失恋から立ち直れたわけじゃないから。

「恭くん、予備校に通ってるんだよね」
「そうだよ」
「すごいなぁ」
「そうでもないよ」

私が話したいことがあると言うと、すぐに予定を立ててくれる。今日も、予備校に行くまでの少しの時間を当ててくれた。きっと恭くん、すごく忙しいのに。それでも時間を作ってくれる。だから私は甘えてしまう。なんでも話してしまう。なんでも、聞いてしまう。・・・とても、気になっていることも。

「行きたい大学とか、あるの?」
「あるよ」
「・・・どこ、かな?」

もしも。もしも、同じ大学に行けたなら。もし、同じ進路を選べるのなら。幼馴染との、この暖かい時間も続くのかな。一緒に他愛もない会話をする、この幸せな時間が待ってるのかな。そんなことを願ってしまう。

「星城大学だよ」

でも。そんな淡い期待は、とても脆くて。

「星城・・・」

星城大学。聞いたことがある。全国でも指折りの難関大学だ。この学校からも毎年何人かは入ってるみたいだけど・・・。上位数名だけが通れる狭い門。学力平均以下の私には、到底登れない壁。

「・・・・・・」

私は現実を突きつけられて、うなだれてしまう。恭くんと私とじゃ、行ける場所が違うんだ。行きたい場所も、違うんだ。

「・・・・・・そっか」

そんな言葉しか出てこなかった。恭くんには散々助けてもらってきて、私は。薄情だな、私。私は、彼を応援してあげられないの?目標に向かって頑張っている、恭くんを励ませないの? 本心を飲み込んで、一言を絞り出そうとする。

いつも助けてくれて、ありがとうね。私のことは、もう大丈夫だよ。もう、私のこと心配しなくてもいいよ。私は私の道を、ちゃんと選ぶから。だから、心配しないで。恭くんならきっとできるよ。恭くんと一緒に成長してきたから、言えるんだよ。今まで本当に、ありがとう。でも。だけど。

「・・・・・・頑張ってね」

心の葛藤とは裏腹に、出て来たのはそんな言葉だけだった。

「ねえ、小春ちゃん」

恭くんは静かに言葉を紡いだ。彼は優しい眼差しで私を見て、こう続ける。

「覚えてるかな? まだ幼かった頃、将来の夢の話をしたよね」
「えっと・・・」

いつの話だろう。小学生の頃の話だろうか。それとも、幼稚園・・・?

「僕は覚えてるんだ。僕は天文学者になって、まだ誰も見たことのない星を見つけるんだって言った」
「あ」

思い出した。あれは、いつも二人で遊んでいた公園でのこと。

『ぼく、しょうらい、てんもんがくしゃになるんだ』

幼い日の恭くんは言った。そう。あのとき。あの日、お母さんの迎えが遅かったんだ。私は泣きそうで。恭くんはお母さんが来るまで、一緒に残ってくれて。お気に入りのブランコで、私の背を押してくれて。夕日に照らされた街の上。いちばん星を指差して、彼は言った。

『ぼくはいつか、まだだれもみたことのない、ほしをみつけるんだ』

そうだ。恭くんは星が大好きで、星を調べる天文学者になりたいとよく言っていた。

「その時、約束したよね」

高校生の恭くんの声。彼はこう続けた。

「最初に見つけた星に、小春ちゃんの名前をつけるって」

そんな話をした気がする。幼い恭くんがまっすぐ私を見て、約束してくれた。

『そしたら、そのほしに、”こはる”ってなまえをつけるから』
『こはる・・・わたしのなまえ?』
『そうしたら、そのほしは、こはるちゃんのほしなんだよ』
『・・・うん!』

幼い恭くんの言っていたこと。夜の空に瞬く無数のきらめきの中に。たくさんのきらめきの隣に、私の星が輝く。よく分からないけれど。今でも、どうしてか分からないけれど。そんな未来を想像したら、心にあった不安がふっと消えて。きらきらしたものが胸に降りて来たような。そんな気がした。

「だからね、それを叶えられたらなって・・・そう思ってたんだ」
「そうだったんだ」

恭くんの叶えたい夢。それは小さい時の私との約束で。彼の目指す大学も、きっと星を専門に学ぶ場所で。私にはそんな純真な恭くんが、すごく眩しく見えた。

「将来の夢のこと、押し付けるわけじゃないけれど」

彼はすごく優しい口調で言った。

「僕が今まっすぐに将来を目指せているのは、小春ちゃんのおかげなんだよ」
「そんな・・・私は」

そんな大それたことはしていない。でも。

「小春ちゃん、ありがとう」

そう言ってくれて、嬉しかった。眩しいな。私も、そんな風に生きて見たいな。私は幼い頃に、どんな将来を夢見てたんだろう。きっと夢みてた未来があったはず。確か、あの時、あの公園で。私も将来の夢を言った。なんて言ったんだろう。確か・・・。確かそれは・・・。

『小春ちゃんの夢はなあに?』

幼い日の恭くんの声。その純粋な瞳に向かって、私はなんと言ったのか。私の胸の中に抱いていた、まっすぐな想い。それは・・・

『わたしはね、うーんとね、恭くんのおよめさ・・・』 「あーーーー!!!!!!」

ストーーーップ!! 止まるんだ、私の回想。それ以上進んだら、私は、私はっ!

「ど、どうしたの!?」
「どどどどどうもしてないよ?? わたしは元気だよ?」

私の混乱ぶりに、恭くんの発言が暴発して、違う、暴発しているのは私だ!?, まさかまさか、私の夢ってまさかのまさか!

「な、何かあったの?」
「なななな何も?? 天気がおいしいね!!!」
「あの、小春ちゃん? 大丈夫?」

落ち着け私!!! そう落ち着くのよ、小坂小春。こういう時は羊を数えて、一匹二匹三びき・・・。って、ちがーーーう!

「そ、それより!! それより恭くん!!」

声が裏返る。無理矢理にでも、話題を変えねば!

・・・

・・・・・・

でも!! その前に!!! かか確認しなくてはいけないことがあるわけで!!!

「はい!」
「わたしの! わわわたしの将来の夢っ!! 覚えて、まさか覚えて、いない・・・よ・・・・・・ね?」

竜頭蛇尾。勢い余って出て来た言葉が尻すぼみになる。

「小春ちゃんの夢・・・・・・えーと? 待ってね、今思い出すから」
「覚えてないならそれでいいの!!!」

飛ぶ鳥を落とす勢いで止めた。ギリギリセーフッ!! 間一髪。一番恥ずかしい思い出を晒すところだった。それにしても今の私。乙女の嗜みというものを、完全に忘れていた。私は身だしなみと呼吸を整えて。

「恭くん」
「うん」

 そして、こう尋ねた。

「今、好きな人、いる?」
「はいいぃ!?」

次に仰天したのは、恭くんだ。そんなに驚くこともないのにな。でもね。もし、ね。恭くんに好きな人がいなければ。私の幼き日の夢を叶えることも不可能ではないわけで・・・。

「いる? いない?」
「なんというか、その・・・」

恭くんはもごもごと言葉を濁した。視線をそらして、顔を真っ赤にして。そして。

「今は、言えない、というか・・・」

ごにょごにょと、そう言った。それから、こう続けた。

「でも! 進路がちゃんと決まったら、そうしたら、その時は・・・その時は、ちゃんと言うから」

恭くんは私の幼馴染で。ずっと一緒に成長して来て。なんでも言って来た仲で。だから。その時は。その時は私も。私も、幼い時の夢を、そっと教えてあげようと、思うのだ。

イモムシマーケター・イモコの挑戦 #

海外ビジネスは文化の壁を超えられるのか

文化の違いを超えてビジネスをする難しさと面白さを、ライトノベルという形で描きました。イモムシという言葉が何度も出てくるので、苦手な方はご注意ください。(というより、イモムシが苦手じゃない人っているのかな?)

── 日本人にイモムシを食べてもらう。 ── これは、そんな壮絶な使命をかかえた少女の物語である。

※ この物語はフィクションです

主な登場人物

  • 原野すけのしん:『万全の上に万全を期す』がモットーの燃えるビジネスマン。若干ナルシスト。
  • イモコ・オノーノ:思い立ったら一直線のまっすぐな女の子。アフリカ育ちでイモムシが大好物。

1日目

僕の名前は『原野すけのしん』。コミックマーケットの宣伝担当者だ。普段はフィギュアを作ったり、カードゲームを開発したりする会社に勤めている。── ピピピピッおっと、失礼! 上司から電話だ。僕はクールにiPhoneを取り出し、ダンディに応対する。

「もしもし。・・・。原野すけのしん、です」

風が、大いなる風が吹いている。

「状況の確認をしたい」
「どうぞお尋ねください」

すかさずスケジュール帳を取り出して、スマートにページをめくる。・・・おっと! 両手がいっぱいだ!

「埼玉はどうなった?」
「万全です!」
「宮城は? それから大阪はどうだ?」
「ぬかりはありません!」

万全の上に万全を期す。それが僕のモットーだ。

「よし。明日からのコミケ、成功間違いなしだな」
「ありがとうございます!」
「だが油断せず万全を尽くすように」
「はい!」

ピッと通話を切る。ふぅ・・・。これでひと段落だな。アニメやコミケやフィギュアといった文化は、なかなか受け入れてもらえないこともある。でも、それは日本独自のすばらしい文化だ。僕はそう思っている。いつかこのカルチャーを、世界中に広めてやるんだ!

家に帰ると、娘が駆けてくる。こう見えて僕は二児の父親なのだ。

「わーん、パパー!」
「おやおや、どうしたんだい?」

彼女は泣きながら僕に飛びついてきた。そしてこう訴える。

「フィギュア死んだー」

そして、腕のとれたフィギュアを僕に見せた。

「大丈夫、死んでないよ」
「ほんとー?」
「すぐに直してあげるよ」

そう言って泣きじゃくる娘をなだめた。僕は書斎に戻って、驚きの接着力を誇るセメダインを取り出した。部屋の中には、アニメのポスターや宣伝広告が貼ってあり、机の上はフィギュアでいっぱいだ。さて、壊れたフィギュアは治そうか。・・・おっと!

「これは絶賛プロモーション中のキャラクター、“星海ひかり”じゃないかっ! 流れ星に乗ってやってきたという設定だったなぁ! 星のモチーフがふんだんに用いられているぁ」

この通り、商品説明も完璧だ。僕の予感はこう言っている。このキャラクターはいつか世界中に広まっていく。そのために僕は、海外ビジネスという大いなる課題に立ち向かうのだ!

2日目

次の日。僕は埼玉の会場に来ていた。

「すごい人だ・・・」

とふつうは思うかもしれないが、僕ら宣伝担当にとっては、それほど驚きではない。なぜなら、すでに来場人数は予測済みだからだ。

「ふむ・・・ちょっと見込みより少ないような気がするなぁ。やはり、これからは海外しかないのか・・・」

ふと案内カウンターのほうを見ると、小さな女の子が一人でうろうろしている。・・・迷子だろうか。

「迷子ちがいます!」

・・・おっと!心の声が聞かれたのかと思ったら、案内係と話しているところだったらしい。会話はこんな感じだ。

「お父さんやお母さんはいるかな?」
「わたし、一人で来た!」
「へぇ~、すごいわね~。じゃあどこから来たの?」
「アフリカ!!!」

いや、さすがにアフリカからは来ないだろうと僕は判断する。なぜなら、そこまでは宣伝していないからだ。ところが、案内係は困った顔をして、少女を僕のところまで連れてきた。僕は何度も顔を出してるから、運営者だと思われたのかもしれない。・・・困ったものだ。僕はダンディに膝をかがめ、声をかける。

「名前は何ていうんだい?」
「イモコ! イモコ・オノーノって言う!!」

なんということだ!大いなる不思議、小野妹子と同名とは!

「不思議な名前だね」
「ジャパンの偉人とおんなじ!」

しかもこの少女、歴史に精通している・・・!

「一人で来たの?」
「あたりまえ!」
「アフリカから来たって本当?」
「とーぜん!」
「なにか困ったこと、ある?」
「もちもの、ぜんぶなくした!」

この少女、常に自信満々だ!では、最終質問だ。

「一人で家に帰れる?」
「・・・」

無言。それを肯定と取るべきか否定と取るべきか、一瞬の逡巡が脳裏を駆け巡る。今、僕の脳神経ニューロンに、シナプスが行きめぐっているところだろう。答えないのは、肯定か。否。これほど聡明な少女が、否定の言葉を持たないなど、ありえない。そんなわけで、その日のあいだ、懸命に捜索を続けたが、落し物は見つからなかった。何度もアナウンスをして、会場の人にも手伝ってもらったのだが、仕方がない。この子が家に帰れるまで、妻に面倒を見てもらうことにしよう。

3日目

翌日。

「すけのしん!」
「な、なんだい、いきなり?」

昨日出会った、アフリカ生まれ少女イモコが、娘たちに混じって朝食を食べている。ちなみに僕の家は、妻と子供たちと合わせて4人家族だ。

「ジャパンに来た理由、言う!」
「ど、どうぞ」

イモコが両手をぐーに握って熱弁する。

「わたし、ビジネスに来た!」
「ビジネス?」
「そう・・・ジャパンはアフリカに似てる」
「そうかな?」

そうか、日本とアフリカは似ているのか。

「だから、きっと好きになる!」
「うん」
「とっても、おいしい!!」
「うん」
「ジューシー」
「うん・・・・・・で、何がだい?」

イモコは待ってましたと言わんばかりに、目をきらきらさせて言う。

「イモムシ!!」

一同が沈黙する。

「・・・もう一度、言ってくれるかな?」
「イモムシ!!とってもとっても、おいしい!」

その3秒後、妻は貧血でふらふらと倒れてしまい、それを見た娘たちは泣きだしてしまう始末。僕はなだめるのに苦労した。仮に、イモコの言っていることが真実だと仮定しよう。まとめるとこうなる。

  • イモコはアフリカから来た
  • ビジネスのために来た
  • イモムシを食べてもらうというビジネスだ
  • ターゲットは日本人

考えながらプロジェクトの壮大さに、気が遠くなる。食文化が違いすぎる。

「ねぇ、イモコさん」
「なんのこと?」
「トウモロコシじゃだめだろうか?」
「イモムシすごいおいしい!」

イモコは一歩も引かず、少女はこう主張した。これが、いわゆるセールスポイントだ。

  • イモムシは葉っぱいっぱい食べる!
  • だから栄養すごい!
  • しかもヘルシー!
  • どこにでもいる!いっぱい取れる! だから安い!
  • なにより美味しい!

「まてまて、 そう言われても僕たち日本人にはね」
「すごくおいしい!」
「美味しいのは分かったから!」
「じゃあ、いっしょに食べる!」

まずいぞ。このままで若きビジネスマン・・・いや、ビジネス少女の、閃光の如きセールストークに打ち負かされてしまう。さあ、僕のターンだ。こう主張する。

  • 日本人には、そういう食文化はない
  • 日本人は、大抵イモムシが大嫌い
  • 想像もしたくない
  • だから、食べるなんてありえない

子供相手に意地になっただろうか。「日本人はイモムシが大嫌い」と言った段階で、イモコは目を丸くして泣きそうな顔になる。僕は言い過ぎたと、反省した。

「文化の違いって思ったより大きいんだね」
「イモコ、知らなかった」

しゅんとしてしまうイモコ。今日の僕はあまりダンディじゃないな。スマートにいかなきゃな。

「それぞれ、自分の文化はすばらしいと思っているんだ」
「日本のカルチャーは、すばらしい?」
「ああ、すばらしいとも!」

そこは、もちろん。文化を超えなきゃいけないからな。

「それって、おいしい?」
「お約束だなぁ」

よし、ぜひこの機会に、日本のカルチャーの素晴らしさを教えてあげよう。

「見てごらん、これが日本のカルチャーだよ」

大小様々なフィギュアを持ってくる。

「ひと、小さい!」
「そう! これはスケールフィギュアっていうんだ」
「目、大きい!」
「これはデフォルメっていうんだ」
「足、細い!」
「これも誇張だね」

そこまで説明すると、イモコは何やら結論を出したようだ。

「あんまり、可愛くない!」

ずるっ。僕はマンガのような効果音と共に、椅子からずり落ちた。

4日目

考えてみればいい。イモコは一度もフィギュアを見たことがない。可愛いと思えなくて当然だ。僕らがイモムシを好きになれないのと、遠からず、なのかもしれない。ではどうしたら日本のカルチャーは、世界に受け入れられてもらえるだろうか。イモコに聞いてみる。

「目小さくして、足太くする!」
「なるほど! その手があったか!」

・・・とは行かないので、安心していただきたい。あくまで現状のフィギュアを受け入れてもらおうというビジネスなのだ。

「すけのしん」
「なんだい?」
「ジャパニーズは、どうしたらイモムシ好きになる?」

こちらのマーケターもビジネスに意欲的だ。昨日の件もあるし、今日は紳士に対応しようと思う。考えてみる。

  • 仮定1: 僕は世界一のイモムシ・マーケターだとする。
  • 仮定2: イモムシを世界に売り出す専門家だ。
  • 仮定3: 日本人にイモムシという食文化を伝えなければならない。
  • 課題: さて、どうやったら食べてもらえるだろう?

次にビジネス的手法で解決を試みる。これぞ大人のやり方だ。まずビジネスを知ってもらう必要があるつまり、宣伝だ。

  • まず、イモムシ料理のチラシを作って配る。
  • チラシから、イモムシ通販サイトにアクセスしてもらうのもいいな。
  • それから、近くのお店にイモムシを置いてもらう

これを読んで恐らく、「お願いだから、やめてくれ!」と思ったことだろう。うん、僕も強く思う。できれば、可能な限り、お店で彼らに出会うことが、今後もないことを願っている。

「一番のネックは、日本人がイモムシとフレンドリーじゃないことだね」

やはりそこに至る。今日は努めてやんわりと表現する。

「でもジャパニーズ、タコとかイカとかホタテとかなぁーんでも食べるっ!!」

それと一緒にされてもなぁ・・・。しかし、イモコの押しは積極的だ。

「ジャパニーズ、センスある! 生でも、いける!」

いやたしかに生だけど・・・

「生だけど、ふつうは醤油につけて食べるんだよ」
「しょーゆ?」

イモコは知らないか。

「大豆を発酵させて作る、日本独自のソースだよ」
「すけのしんもしょーゆ使う?」
「もちろん! 日本人は醤油が大好きなんだ」
「イモコ、ひらめいた!」

勢いよく立ち上がって、希望に満ち満ちた様子で話し出すイモコ。

「ジャパニーズ、しょーゆ使えば、イモムシ食べられる!」

それは、こう言い換えられる。

  • 日本人がイモムシを食べられないのは、醤油を使わないから

なんという成長だろう!

「その発想はなかった。えらいぞイモコ」 「あたりまえ!」

それでも食べられないだろうが。

5日目

翌日。

「すけのしん!」
「なんだい?」

すっかり家になじんでしまったイモコ。ほんの数日なのに、まるでずっと一緒に暮らしていたみたいだ。

「しらせある!」

今日のイモコはいつもよりごきげんだ。その笑顔を見ていると、こちらまで元気になってくる。

「知らせってなんだい?」
「おかーさん、むかえにくる!」
「・・・え」

いっしゅん戸惑う。お母さん、お迎え、それはつまり・・・。

「連絡、取れたのかい?」
「あたりまえ!」

その言葉は、お別れを意味する。

「・・・そっか。うん、そっか」
「すけのしん、どーかした? 元気ない」

寂しそうに見えたのだろうか。いけない、今日もあまりダンディじゃない。

「よかったじゃないか」
「とーぜん! でも・・・」

イモコは少し残念そうな顔をする。心残りがあるのだろうか。

「すけのしん、イモムシ食べない」

・・・できれば、それ以外でいて欲しかった。話の流れ的に、これをクリアすればハッピーエンドみたいな、そういうフラグは、もう少し難易度を落としてほしい。

「イモコは、どの辺に住んでいるんだい?」
「アフリカ!!」
「アフリカのどの辺りかな?」
「山!!」

ふぅ、まあいいか。

「いつか、会いに行くよ」
「ほんと! アフリカくる?」
「ああ。なんたって僕は、星海ひかりを世界に広める男だから」
「ほしーみかーり」
「星海ひかり、ほら目の大きくて足の細い」

いつものクセでフィギュアを取り出そうとして、躊躇する。文化の違いって、やっぱり大きいもんなぁ・・・。

「それ、ほしい」
「え!」

イモコは、いままでにない真摯な顔をしていた。そして、いつものたどたどしい口調でこう言う。

「すけのしんの、好き、わかりたい。 ・・・ジャパニーズの、好き、しりたい」
「イモコ・・・」

この子は、みずから日本のカルチャーを受け入れようとしているのだ。その姿を見て僕は・・・。

「イモコ、なんでも欲しいものいってごらん。最後にプレゼントするから」
「んー」

イモコは少し考え、すこしいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「目、つぶる!」
「え? ・・・いいけど」

言われるままに、目をつぶる。それから30秒。それを目撃した娘たちは目を丸くしていた。

・・・・・・。

ここまで読んでくれた読者諸君なら、僕がいったいなにをされたのか、だいたい想像がつくだろう。・・・まあ、その、なんというか。思っていたより甘い味だった、とだけ言っておこう。

玄関のベルがなる。お別れの時間だ。

「イモコ、わかったかもしれない」

── 文化を伝える方法。

それはきっと、

  • その文化を受け入れることから始まるんだ。
  • その文化を好きになって、受け入れてあげる。
  • そうしたら、ちゃんと届くんだと思う。

「ただいま~」
「おかーさん!」

イモコが元気に言う。帰ってきたのは、僕の妻。

「え、おかーさんって・・・」
「おかーさんは、おかーさん」

イモコは娘たちを見てから、妻を指さした。そりゃ、娘たちから見たらおかーさんだろうよ。

「でも、連絡とれたって」
「およーふく、買う! やくそくした!」

やれやれ。お約束のエンディングだな。この小さなイモムシマーケターとは、もうしばらく縁が続きそうである。